お題:哀れな家事 必須要素:ケチャップ 制限時間:1時間 読者:28 人 文字数:3410字 評価:0人

人生の墓場
 玄関の戸を開けた時、わたしは「わぁ……」と言いかけてしまった。
 それは、感動の「わぁ……」だった。チリ一つない廊下、秩序だって並べられた玄関先の靴、さりげなく飾られた趣味のいい花瓶とそれに調和した花、所帯じみた臭いのしない室内……。
 まるっきり、わたしの理想の家だった。
「いらっしゃい」
 ひょっこりと台所から顔をのぞかせた彼女は、最後に会った5年前と何ら変わらない、いやあの頃よりも若々しくさえ見えた。
「久しぶりね、アサミ」
「久しぶり、キヌコ」
 どうぞ上がって、とキヌコに促されて、わたしは靴を脱いだ。


 ◆ ◇ ◆


 通されたリビングも、整然としていて品のいい調度品が並ぶ。落ち着いた雰囲気の部屋で、わたしは少し緊張する。
「ゆっくりしていて。もうすぐできあがるから」
 キッチンカウンターの向こうから、キヌコはそう笑顔を向けた。
 わたしとキヌコは銀行の同期だ。
 200人もの大規模採用がされた同期の中で、彼女とわたしの気があったのが何故なのか、今もわからないでいる。
 大学を出たての頃から、「バリキャリ」のような雰囲気を持っていて、実際仕事もできた彼女と、鈍臭くてお局様に怒られてばかりだったわたしとでは、天と地ほどの差があったのに。
 実際に、キヌコはどんどん出世していくタイプに見えた。上長に気に入られ、同期の女性どころか男性を含めても、指折りの優秀さだと言われていた。
 そんな彼女が、今は寿退社して専業主婦をしているというのだから驚きである。
 二つ上の、これまた仕事のできる竹内カズオという先輩と結婚し、そのまま仕事を辞めた。キヌコの旦那になったその先輩も、投資コンサルタントに転身し銀行を去って、それ以来彼女とは年賀状を交かわすだけの中になっていた。
 一方、鈍臭いわたしは銀行に残っていた。決まりきった仕事だけがようやくこなせるという、ただそれだけの存在は、ただこの場所にしがみつくしかないのだった。
 キッチンの方から
「いい匂い……」
「是非食べてほしいお肉が手に入ったから、オーブンで焼いているの」
 こんな休日のお昼時から、凝ったものを作ってくれるなんてさすがはキヌコだ。昔から完璧主義者だった彼女の性質は、専業主婦になった今も変わっていないらしい。
 それは、この家を見てもわかることだった。
 大学時代の友人で結婚している子たちの家を何軒か尋ねたことがあるが、どこも生活臭が激しく、いささか辟易した。今日も、そんな家が待っているのではないか、あのキヌコがそんな家に住んでいたらイメージが崩れる、なんてことを心配していたのだが、どうも杞憂だったらしい。
「……できたわ」
 キヌコは大きな皿をキッチンカウンターに乗せた。縁が金色に光る高級そうな大皿の上には、きれいに切り分けられた肉が、これまた美しく盛り付けられている。
「あ、運ぶね」
 未だ健在のお局様に「いつまでたっても気が利かない」と小言を言われるわたしであるが、さすがに皿の大きさを見て取って立ち上がる。
「お願いするわ。わたしはワインを運ぶから」
「ワイン? 素敵」
 わたしたちは笑い合った。初めてボーナスが出た時、高級なフレンチを二人で食べに行ったのを思い出す。あの時飲んだワインは忘れられない。イタリアンファミレスの安ワインしか知らないわたしなどは、これほどに味が違うものかと思ったものだ。
 大皿を手に取った時、ふとカウンターの内側が見えた。
 白い引き出しについた、赤黒いしみが目に入ってくる。
 この家には似つかわしくないしみだ。真っ白い大きな紙に、ほんの一滴だけたらされた墨汁。それほどに、汚らわしいもののように見えた。
「やだ、そんなところにしみが残っていたなんて」
 わたしの視線に気づいたのか、キヌコが眉を寄せた。
「昨日、ケチャップを盛大にこぼしたのが飛び散っていたみたいね」
「キヌコでも、そういうことあるんだ」
 きっとこの家では、プラスチックではなく瓶入りのものが常備されているんだろう、とわたしは想像した。
「ふふ、わたしだって失敗ぐらいするわ」
「そうよね」
 また笑い合って、キヌコは布巾でその汚れをふき取った。


  ◆ ◇ ◆


 大皿を真ん中に、わたし達はワイングラスを鳴らした。
 健康志向のキヌコは、肉のほかにちゃんとサラダも用意してくれていた。手間のかかったポテトサラダで、隠し味のリンゴが効いている。
「こんなにも料理がうまくなったなんて、驚いちゃった」
「専業主婦になって五年よ、嫌でも覚えるわ」
 キヌコは半分ほど中身の残ったグラスを回しながらため息をつく。
「ね、アサミ。仕事楽しい?」
「どうかな? 毎日同じことの繰り返しだから……」
 その繰り返しすら、わたしは満足にできていない気がする。
「主婦もそうよ。毎日毎日、同じことばっかり……」
「すごいよね、キヌコは。この家来た時、びっくりしちゃった」
 わたしは掃除が行き届いていることや、調度品の趣味の良さを褒めた。できるだけ嫌味のように聞こえないように、心からの言葉だから伝わると信じて。
「これも毎日の繰り返しのたまもの……」
 それが伝わったかどうか判然としない、キヌコの微笑は意味が読みづらいのだ。
「毎日繰り返すから、当たり前になってしまうのかしらね。こちらの労力に対して見返りが釣り合っていない、と主婦になってから思うわ」
 家事とは哀れなものよ、とキヌコはワインを一口含む。
「きちんとできていて当たり前。できていないければ、そのことだけを責められる……」
「旦那ってそういうものだって、結婚したわたしの友達も言ってたよ」
 まったく結婚とは人生の墓場だ、とその友達は何かの引用らしいフレーズを使っていたっけ。
「ボードレールね」
 さすがはキヌコ。わたしはそのワインみたいな名前の人が何をした人物なのかもわからないが、曖昧にうなずいておいた。
「誤解から広まった言葉らしいけれど、そういう認識の人が多いから広まるのよ」
 そう、みんなそう思ってる。だけど、とキヌコはグラスを置いた。
「わたしの不幸はわたしの不幸よ。この墓場は、わたしの墓場」
「キヌコ……?」
 目が据わっている。酔っているのだろうか? お酒は強いはずなのに、とわたしは訝しんだ。
「ねえ、アサミ。お肉、どれくらい食べた?」
 中央の大皿は、きれいな円形の盛り付けのうち、わたしの側だけが欠けていた。
「え、3切ぐらいだけど……」
 キヌコは、据わった目のまま口角を釣り上げた。
「もっと食べなさい。その肉は、是非あなたに食べてほしい肉だから……」
「そ、そんなにいい肉なんだ……」
 言われるままに、わたしは4切れ目の肉を口に運んだ。多分、豚肉だと思う。牛肉ではないあたりが、健康を考えるキヌコらしいのか……。
「そりゃあいい肉よ、それは。何せ、年収1200万の金融コンサルの肉だから」
 肉を噛むわたしの口が止まった。口の中に広がってくる味、その味を感じながら、わたしは「え……」と彼女を見つめる。
「どういうこと?」
 鈍いわね、とキヌコの見返してくる目は冷たく歪んでいた。
「高木カズオの―― 夫の肉だってことよ」
 わたしの脳裏に、何故かキッチンカウンターの内側にあったしみが思い起こされた。ケチャップと呼ぶには、あれは赤黒すぎたのではないだろうか。
 次に、数年前に読んだ美食の本の記述が思い起こされる。ワインにはまったわたしは、一時期そういう本を読み漁っていた。そのエッセイは食にまつわることなら何でも扱っていて、人肉食についての記述もあった。人の肉というのは、風味が豚に――。
 わたしは吐いた。キヌコが毎日磨いてきたであろうフローリングにそれをぶちまけた。口の中、胃の腑の奥に入れてしまったあの人の、カズオさんの肉を吐き出した。
「知ってるのよ、アサミ」
 うずくまったわたしを、キヌコは蹴り転がした。吐しゃ物にまみれて、わたしは呻く。
「あなたがカズオと不倫しているのを」
 バレていたのか、とわたしは蹴られたところを押さえた。
「わたしはあの人に尽くして、仕事まで辞めて、こんな主婦業なんてしているのに、どうしてあんたみたいな鈍臭い女と――」
 わたしを見下ろすキヌコの目はgkk
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