お題:儚い悲しみ 制限時間:30分 読者:21 人 文字数:2091字

私と猫の備忘録(16)
 仕事を終えて帰ってきた。時間は午後7時50分。いつの間にか、夜の帳が下りるのが早くなった。そう思うのだが、それが誤解であることも知っている。夜は、気づかないうちにやってくるものなのだ。

 俺が帰宅した時、まだムーちゃんは息をしていた。もう、かなり危ない。そのことはラインで知っていた。今朝、動物病院に連れて行ったけれども、治療をせずに家に戻ったそうだ。もう、治療をしても命を縮めることにしかならない。そう先生が判断されたのだ。

 6月だと言うのに、蒸し暑い日だと思った。徒歩で帰宅したため、ワイシャツにかなりの汗が滲んでいたし、額にも薄っすらと汗が吹き出ていたのだろう。俺は腕で拭うと、横たわっているムーちゃんに近づいた。

 ムーちゃんは、座布団の上に寝かされていた。体が冷えないようにタオルを掛けられている。傍目に見れば、目を閉じて眠っているようにも見える。既に、息をしていないのかもしれない。そんな恐怖に駆られながら、じっと見つめるとタオルが僅かばかりに上下している。

 まだ呼吸をしている。家族の言葉に少しだけ安堵をしながら、肉球を握った。温かいように思えたが、それは誤解だった。自分の予熱が反射して感じ取れただけで、ムーちゃんの体温は低下していた。

 声を掛けると、閉じていた目を開いてこちらを見た。以前のように、いや、昨日のようにミャアと鳴くことすら無い。ただ、わかったよとばかりに、じーっと俺のことを見た。そして、生きているとばかりに首を振った。

 世の中の話では、治療を始めてから一年も二年も生きる子がいるらしい。そう聞いていたから、このまま寝たきりでまだまだ生き続けるんじゃないか。そう思っていた。食事の量が減っても、今朝もチュールも食べたし水も飲んでいるから、まだまだ元気だと思っていた。大丈夫、治療費で生活は厳しくなるけど、このまま頑張り続けることが出来る。そう信じていたし、そう出来る自信もあった。

 猫の声がか細くなっていく。そんなことは気にもしなかった。野太い声でニャアと鳴いていたのが、ミャアと鳴いても、何の問題もないのだろうと思っていた。

 いや、違う。そう信じようとしていた。自分自身を誤魔化して、現実世界から逃避しようとしていただけだったのだ。

 父親が連れて帰って来てから、もう十八年になる。この重さは、生まれた子供が大学生になるようなものだ。この世に生を受けてから、旅だっていく年月に該当する。

 ムーちゃんが、咳き込むように舌を動かした。何かを欲しているようで、求めているように見えた。ああ、大丈夫だ。これはお腹が空いた証だ。俺がチュールを取ろうとすると止められた。

 違うんだよ。痙攣だよ。そう聞かされて動けなくなる。頭がうまく回転してこない。どうして、痙攣なんて言える? お腹が空いているだけかもしれないじゃないか。文句を言い返そうとするが、言葉にならない。眼の前で看病してきたのは、俺ではない。日中の状況を見知っているわけではない。何も知らないくせに、偉そうに意見することなど出来ない。

 先生が言うには、体温が下がり意識レベルが低下しているから、苦しみは無いと思う。とのことだ。もし、苦しんで死ぬようなことがあれば、それは延命した人間の責任なのかもしれない。点滴や治療をしなければ、もっと簡単に安らぎを得ていたのかもしれない。

 もし、猫と話すことが出来るならば、本人の意思を重視した。それは間違いない。でも、俺らはこのまま、化け猫となるまで生き続けるであろうことを信じていたし、願っていた。動かなくなるなんてことは現実ではない。そう自分勝手に思い込んでいた。

 このままの状態でも構わない。生き続けて欲しい。そう願いつつも、それは現実の前に拒否された。それは、お前らの自分勝手な願いでしか無い。そう知らしめさせられているかのようだった。

 午後8時丁度、ムーちゃんは呼吸をすることを止めた。でも、苦しそうではなかった。何事もなかったかのように動かなくなった。心臓も停止していたにもかかわらず、瞳孔が開いていたのにもかかわらず、体にはまだ温もりが残されていた。

 元気だった頃は美しいピンク色だった肉球は、色素を抜かれたかのように白くなっていた。ふさふさした尻尾は相変わらず綺麗だった。閉じていたはずの口が少しずつ開いてきた。不可逆的な硬直が始まっていた。

 頭を軽く撫でた。元気だった頃の艶は既に失われていた。それでも、とても美しい白色だった。

 優しく撫でながら目と口を閉じてあげた。うっすらと開いたままだけれども、少しは安らぎを得ているように思えた。

 冬のあの日、膝の上にのってきた猫は、もうのってくることは無い。

 保冷剤を持ってきて体にいくつか乗せてあげた。あまり温まりすぎるのは良くないから。

 霊園に連絡をして花を買ってきた。白い花。彼の毛の色にとても似合う色だ。

 明日、会社を休んでいってくる。
 俺はこんなことしか書けない。それだけのちっぽけな人間なのだ。




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