お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:63 人 文字数:3003字 評価:1人

おやつタイム
 先日の人間ドックで血糖値の高さを指摘されてから、甘い物禁止令が職場に発令された。同僚と揃って同じ結果を出たのが上司に知られたのだ。客が差し入れる菓子折りの箱がデスクには積み上がっており、仕事をするよりおやつを食べている時間のほうが多い、休憩時間ともなれば、すこしでも減ったおやつを補充しようとコンビニやスーパーに走る、そんな惨状をどうにか改善しようと、上司としてついに重い腰をあげたというわけだ。
「おやつは一日三度まで! このルールを破ったものはクビだ!」
「えー」
 職場における甘党率は、イタリアにおけるカトリックの占める割合くらいのもの。つまり大多数が不満の声をあげた。
 甘い物好きとしては並のレベルではないと自負する僕も、これには黙っていられない。みんなを代表して異議を唱えることにした。
「質問です! 一日三度とは言いますが、十時と三時のおやつはいいとして、残り一回はいつになるのでしょう!」
「夕方四時のおやつだ」
「三時のおやつから一時間も空いてなくて、バランスが悪いと思います!」
 挙手をして大声で言うと、そうだそうだ、とみんなから同意する声があがった。
「うるさい、私は夕方ごろに夕食が待ちきれなくてお腹が空くんだ、文句あるか」
「そんなの課長の都合じゃないですか。大体、一日に三度なんて全然足りません」
「だがこのままでは確実にこの課の全員が糖尿になる。糖尿はこわいんだぞ。症例なんて聞いてみたらびびって腰抜かすぞ」
 僕は上司と睨み合った。緊迫した雰囲気のなか、視界の隅で同僚のひとりが、菓子箱からドーナツをそっと抜き取るのを捉えた。
 上司が奇声を発してとびかかり、ドーナツを奪い取って窓の外に放り投げた。ゴールデンチョコレートは黄色い粒を振りまきながら、雑踏に落下していった。
 がっくり膝をついた同僚を横目に、上司が怒鳴り散らした。
「ええい、甘い物のことしか頭にない無能どもめ、異議のあるやつはいますぐ出て行け!」
 僕らは顔を見交わし、うなずき合うと、一斉に荷物をまとめはじめた。甘党の結束力を舐めてはいけない。上司をハブってケーキバイキングに行くくらいお手の物だ。
 午後の業務もあるので今去られては困る上司は、すぐさま態度を変えて泣きついてきた。
「悪かった、言い過ぎた。まじめな話、甘い物ばっか食べ過ぎて営業成績が落ちてるのも事実なんだ。私の昇進もかかってるし、黙っていたが来月までに結果を出さないとお前ら全員減給なんだ」
「どうしてそんな大事なことを黙っていたんです」
「私だって甘い物が好きだからだ。仕事なんてしないで、ずっとどら焼きとかきんつばとか食べていたかった。でも、それじゃ駄目なんだ。おやつと違って、社会はなにもしない奴を認めてくれるほど、甘くはないんだよ……」
 上司の必死の訴えはみんなの心に響いた。ひとまず来月まで、という限定つきで、甘い物禁止令を実践して、まじめに仕事をしようじゃないかという結論に至った。

 オフィスから菓子類は一層された。まだ食べていない菓子は、近所の公園で遊んでいた子供に配ってきた。おやつのなくなった職場はがらんとして、必要最低限のものだけが置かれたデスクのうえは、まるで仕事をするためだけの場所のようだった。
「そういえば、職場って仕事をするための場所だったな」
 しみじみ気づいて、さて、久しぶりに仕事でもするか、と各々の席についた。
 禁断症状が最初にあらわれたのは、あの日ドーナツをこっそり食おうとした同僚だった。彼の大好物はチョコレートで、一日に板チョコを20枚消費しないと死ぬと冗談交じりに話していた。今、彼はチョコレートの女神を幻視して、跪いて虚空に両手を掲げている。
「褐色の美女が俺のまえに降臨なされた。慈悲深き顔で、私をお食べなさいとおっしゃっている。課長、女神の胸に抱かれに行ってもよいですか」
「やめておきなさい」
 課長が冷たく言ったが、同僚は聞く耳を持たなかった。奇声を発して虚空に抱きつくと、泡をふきながら白目を剥いて床に転がった。夢のなかで、思う存分、大好物を貪っているのだろう。
「お茶です」
 同僚の女の子が僕の席まできて、湯呑を置いていった。礼を言って口をつけると、味がしない。透明な液体が湯気を立てている。
「お湯なんだけど……」
「不満があるなら、自分で淹れれば?」
 つっけんどんに言って、お盆を僕の顔面に投げつけ、怒ったまま行ってしまう。職場の女の子がみんな生理中並みにイライラしている。甘い物を食べていないせいで、ストレスが溜まっているのだ。男は全員なにがしかの幻覚を見て失神しているし、給湯室では、女同士で掴み合いの喧嘩をしている物音が聞こえてくる。職場は殺伐としていた。それもこれも、甘党から甘い物を取り上げたせいだ。
 できあがった資料を持って、課長の席に行った。
「それにしても、課長はさすがですね。なにか手を打ってるんですか」
 僕はかろうじてガムを噛み続けることで理性を保っていた。とっくに味のしなくなったキシリトールガムに、甘い風味を想像することなんとか欲求を補っている。
「なに、社会経験の差というやつだ。自制心があるんだよ」
「課長、なんか口動いてませんか」
「動いてない」
「口の端に食べかすついてますよ」
 反射的に課長が口をぬぐった。その拍子にシャツの懐から食べかけの最中がぽろりとこぼれ落ちた。最中は和菓子好きの課長の大好物だ。
 そのときの僕の形相は、鬼のようだっただろう。
「おい……言い出しっぺが隠れてなにを食ってる……」
「これはその、もなかではない。消しゴムだ」
 下手な言い訳をする課長の首に手をかけた。甘い物禁止令のせいで、苛ついているのは僕だって同じだ。理性のたがも外れやすい。オフィスでは死屍累々と横たわった奴らが、ぶつぶつうわ言をつぶやき、湯呑やお盆や、引きちぎられた髪の毛が宙を飛び交う。課長の最中に気づいた連中が、手に手に備品のカッターナイフを持ってゾンビのように迫りつつあった。
 おやつのなくなった職場は地獄絵図と化していた。
「あの、すみません……」
 遠慮がちな声が戸口からしたのは、そのときだった。子連れのママさんたちが、紙袋を提げて部屋を覗き込んでいる。
「子供たちにお菓子を配ってくれたと聞いて、お礼に伺ったのですが。これ、つまらないものですが、みなさんで召し上がってください」
 死にかけていた課長がかっと目を開いて息を吹き返した。失神していた同僚がむくりと起き上がった。つかみ合っていた女同士は、向き直って服装と髪を整えた。
 僕はガムを吐き出し、テッシュに包んで捨てた。
「おやつですか」
 代表で僕が聞くと、ママさんたちは戸惑いながらうなずいた。
「はあ、ずいぶんたくさんのお菓子をいただいたようで。いろいろ持ってきたんです。和菓子とか、チョコレートとか」
 職場ににわかに活気が戻ってきたようだった。仕事道具を片付け、デスクを空けた。お皿を用意し、お茶を淹れた。「おやつの時間にしよう」といつになくうきうきと課長が号令をかけ、ママさんを招いてみんなでお菓子を囲んだ。
 平和な雰囲気がそこにはあった。
「適度なストレス解消は必要だな」
 課長が言って、甘党の全員がそれに同意した。




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