お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:31 人 文字数:3111字 評価:1人

スーツケース片手に私は進む
スーツケースを片手に電車内に一歩入り込んだ途端、茶色の景色が広がった。
野球場だった。中腰の、すぐに動ける体勢から、私はそのグラウンドを見た。守備側、バッターがキャップを直す様子。
それが、ただの幻であることは、すぐに分かった。けれど、夏の日差しが肌を焼くジリジリという音さえ聞こえてきそうで、開閉するグローブに指が馴染む感触があまりに懐かしく、すぐにはそうだとは判別できなかった。

「――っ」

肩にぶつかるようにして入り込んだ乗客のせいで、幻はすぐにほどけた。
どうやら私は、入り口付近で茫然と突っ立っていたらしい。邪魔な人間を抱えて退かすわけにもいかず、後ろから来た乗客によって体ごと押しのけられたというわけだ。

すいませんとか、申し訳ないとか、瞭然としない謝罪を述べながら、私は開いていた座席に座った。
ラッシュの時間帯を過ぎていたため、まだ席は空いていた。

私は膝上に乗せたスーツケースを見下ろす。銀色の表面は、どれほど見返しても変化することはなかった。

――なんだったんだ。

独り言のように、思う。

――さっきの幻は、一体なんだったんだ。

ただ純粋な疑問があった。
白昼夢と言うにしても生々しい、あまりにハッキリとしたそれは、とても私自身の記憶を再生したのだとは信じられなかった。
今こうして座席に座り、スーツケースを抱え込んでいることの方が現実味がない。

窓外を、よろよろと見上げる。四角に切り取られた風景の中に、ひときわ背の高いビルがそびえていた。私の目的地だ。直通する路線はなく、乗り継いでぐるりと大回りに行くしかない。タクシーでも拾えばよかったかなと今になって思う。

私にとって、あの過去の幻は、あのビルと同じくらい遠い、そのはずだった。

あの風景、あの茶色、あのグラウンドは高校生活のすべてを賭した準決勝、その一場面だった。相手は格下、本来ならば勝てる相手だ。実際、得点にこそ結びつかなかったものの、惜しいチャンスは幾度もあった。

当たり前にやれば、勝てる相手――

私たちはもちろん、相手ですらもそう思う、そんな試合だった。
今でも思い出す、確かに、思い出すことができる。
あの時のバッターの一挙手一投足までもハッキリと。

『次はぁ――』

独特の調子で、次の駅名が告げられる。
どうやら、私はまた半ば意識を飛ばしていたらしい。首を振り、頭をハッキリさせるよう努める。
果たしてこんなにも夢見がちな奴だっただろうか、自分は。

乗客がパラパラと入り込む。
中途半端な時間帯であるため、乗り込む客も半端に雑多だ。
私と同じようにスーツ姿の者、着慣れていない風のジーンズを確かめている者、派手なバッグを見せびらかす者、そしてボールを転がす者。
ころ、ころ、と縫い目のついた球が、乗客と一緒に入り込む。左へ右へと足の群れを避けながら。誰かが電車全体を傾けているのか、徐々にその速度を上げ、まっすぐこちらへ向かってくる。増し続けた速さは臨界に達し。

白球が、跳ねた。

イレギュラーバウンドはよくあることだ。グラウンドの状態によりボールへの対処を変えるのは当然のことだ。
しかし、あの時のボールには、きっと悪魔が乗っていた。
高く落ちたはずのそれは、地面に落ちた途端、角度を急撃に変えた。
舌打ちする暇もなく、馴染んだグローブも間に合わない。
私がどれほど手を伸ばそうとも不可能なほど低く、弾丸のように私の右足の傍を白球は擦り抜けた。
足から背骨にかけて、血液が一気に冷えた。私の後ろには、誰もいない。簡単に取れるはずのアウトが、信じられないという顔をしながら駆け抜ける走者に変貌した。

振り返り、急いで取りに行こうとして、足がもつれる。右足と左足が言うことを聞かない。
あの時の焦り、絶望。
一秒が馬鹿みたいに短く、また恐ろしく長く感じられた間。
夏の日差しと怒声が唱和し、一斉に私へと降り注いだ。


スーツケースを抱え込む――
何度も何度も呼吸を繰り返す。まったく酸素が足りていない。
先ほどのように、いや、それ以上にリアルに、あの時のことを見ていた。
思い返す、などというレベルでは決してなかった。
私はたしかに再びミスをした。

車内の床を見渡す、何度も何度も舐めるように。
どれだけ見直しても、ボールなど転がってはいなかった。



現実感が、急速に失われていく。
アナウンスされる駅名は、まるでお経のように意味をなさない。
意味が脳裏で結びつかない。

――帰ったら、イタリアに行こうぜ。

キャプテンは、試合前にそう言っていた。
皆がよく行く安いイタリアンレストラン、個人経営の量だけはたっぷりと出してくれる店。
そこで景気よく食べて決勝に備えるのは、彼の中では決定事項になっていたに違いない。
一人の馬鹿のせいで、それは果たされなくなった。

ああ、そうか――

あの時の車内と、今の様子はよく似ている。
現実感がまるでない、どこかふわふわとした、やわらかな夢の中にいるような気持ち。
誰かが涙を流せば、あるいは私の事を責めてくれれば、それだけで壊れるシャボン玉のような儚い空気。そのシャボン玉の中には、きっとたくさんの悲哀と私への罵倒が詰め込まれていた。

けれど、結局誰もそれを壊さず、そして、そのまま卒業を迎えた。

野球部、準決勝で敗退――

そんな結果だけが、他人事のように校内新聞に掲載されていた。


私は、きっとそのシャボン玉の中に囚われ続けた。他の誰が責めずとも、私が私のことを許せなかった。
素振りをしても意味など無い。どれだけバッドを振り回したところで、あの時のエラーは覆らない。あるいはと思い、いっそ勉学に力を注いだところでもう一人の私が囁く。

――チームを負けに追い込んでおいて、お前一人だけが偉くなるのか? ああ、そうしたかったから、あの時にああしたんだな?

助けてくれ。切実にそう願った。
誰も私の罪を糾弾しないことが、酷く苦しかった。
私のせいだ、私のせいで、皆の努力を無為にした。
こんな奴など許してはいけない。

心がふらふらと彷徨う日々の中、やけに胡散臭い笑顔をした人に、優しく声をかけられた。よくわからない経典とやらを片手にした人だった。

――あなたと同じ悩みを抱える人が、たくさんいます――

そう言われ、本部とやらに行くことになった……


スーツケースを撫でる。
銀色の表面を確かめる。

あれから、何もかもを忘れて教義にのめり込んだ。
野球の練習と同じように、いや、それ以上の熱心さで。
それは、他のことを考えずとも済む時間だった。
私にとって、まぎれもない救世だった。
私は救われたのだ。
他の誰が教団を非難しようとも、それだけは変えられない事実だ。

だから、そう、これをあのビルに運ぶことだって、きっと誰かを救うことになるに違いない。

私は頷き、席を立つ。
気づけば乗り換えの駅だった。
呆然と意識を飛ばしながらも、こうして幻を振り切れたこともまた運命に違いない。

私は電車を降りる。
見ずとも背後では茶色いグラウンドが広がっていると分かった。私の罪、私の過去、私のミスを振り切り前へと進む。
こんなもの、もう忘れてしまえ。

幻の茶色の中で、茫然自失で涙を流す私の肩を、私と同じくらい涙を流しながら肩を叩いて慰めるキャプテンの姿があった。
イタリアに行こう、そう言っていた。
果たされない約束だった。

扉が閉まり、電車が動き出し、スーツケースを片手に私は進む。















作者にコメント

対戦作品一覧


ユーザーアイコン
作者:にい お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:33 人 文字数:3003字 評価:1人
先日の人間ドックで血糖値の高さを指摘されてから、甘い物禁止令が職場に発令された。同僚と揃って同じ結果を出たのが上司に知られたのだ。客が差し入れる菓子折りの箱が 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:31 人 文字数:3111字 評価:1人
スーツケースを片手に電車内に一歩入り込んだ途端、茶色の景色が広がった。野球場だった。中腰の、すぐに動ける体勢から、私はそのグラウンドを見た。守備側、バッターがキ 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:和委志千雅 お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:24 人 文字数:2404字 評価:0人
「茶色・・・オレンジ色かな?はじめはそういう感じに見えた」国際興業バスに乗っていると、そういう話が聞こえてきた。後ろから。普通の感じの会話だ。聞くこともなかった 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:こっころ お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:25 人 文字数:1326字 評価:0人
正体不明の小堤が届いた。宛先は俺、送り主も俺。というかアマゾンで買っていたようだ。片手では持てないが両手なら持てる位のサイズだった。実際持ってみると意外に重い。 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:ウルス(文芸部アカ) お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:20 人 文字数:2381字 評価:0人
「『ブラウン』やるか?」 さびれた宇宙港のそばにある、場末のバーで同僚のダレスに持ち掛けられたが俺は固辞した。「そんなの今からやっちまったら、明日出勤できなくな 〈続きを読む〉


ユーザーアイコン
作者:雨宮ヤスミ お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:30 人 文字数:3595字 評価:0人
久しぶりに会った姉は憔悴しきった顔をしていた。「どうしたの、って……。決まってんじゃんか……」 姉は大きなため息を吐く。義兄さん? と尋ねると「部分的にそう」 〈続きを読む〉

inoutの即興 小説


ユーザーアイコン
歌と呪い ※未完
作者:inout お題:失敗の螺旋 必須要素:即興イラストのステマ 制限時間:1時間 読者:14 人 文字数:3679字 評価:0人
カラオケボックスは一人で入るもんじゃないなと思いながら、安っぽい廊下を通った。左右の個室からは上手いんだか下手なんだか分からない歌が不協和音となって響いている。 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:茶色い幻覚 必須要素:イタリア 制限時間:1時間 読者:31 人 文字数:3111字 評価:1人
スーツケースを片手に電車内に一歩入り込んだ途端、茶色の景色が広がった。野球場だった。中腰の、すぐに動ける体勢から、私はそのグラウンドを見た。守備側、バッターがキ 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:簡単な町 必須要素:絵画 制限時間:1時間 読者:31 人 文字数:3741字 評価:1人
あの町へ行きたい?簡単だ、この道をまっすぐ進んで駅に乗って隣、たった一駅分だ。終点だから間違えることもない、たとえ反対車線に乗ったところで引き返してしまえばそれ 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:彼のぬるぬる 必須要素:マフィン 制限時間:1時間 読者:32 人 文字数:3330字 評価:0人
一立方メートルもない透明な箱の中に粘液状のものが蠢いている。色は赤黒いとしか言いようがない、実に不気味な色彩だ。これは一体なにかと所長に尋ねたところ、「俺のぬる 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:絶望的な俺 必須要素:宇宙人 制限時間:1時間 読者:48 人 文字数:3490字 評価:1人
「どうしたら、君は絶望してくれるんだろう」そんなセリフを言ったのは自称宇宙人で、散々俺に拷問やら精神攻撃やら洗脳やらのセットをしでかしてくれた後でのことだった。 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:僕と検察官 必須要素: 制限時間:1時間 読者:36 人 文字数:3223字 評価:0人
小学校で、帰り道、僕は検察官に会った。もっとも、そうだとは信じることができなかった。よく犬がマーキングしている電柱に財宝が埋まっているのだと言われた方が、きっと 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:最弱の妄想 必須要素:パーカー 制限時間:1時間 読者:39 人 文字数:2437字 評価:0人
真新しいパーカーは、着ぐるみを着込んでいるような気分になる。もの珍しいけど、ちょっと気恥ずかしい気分が残る。冬の寒さがまだ残る春先という季節は、どのような衣服を 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:ぐちゃぐちゃの真実 必須要素:子供 制限時間:1時間 読者:41 人 文字数:2723字 評価:1人
寛永二十三年、日差しが柔らかく春の装いをまといはじめた時分、一人の子供が噂となった。顔を見るだけで、その者の真実を言い当てるのだという。ある者は失せ物を、ある者 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:彼女が愛した冤罪 必須要素:ペットボトル 制限時間:1時間 読者:50 人 文字数:3896字 評価:0人
ヒヒ、と笑う男がいた。異形の相だ。おおよそ人としての均衡を欠いている。左の腕は異常に短く、対して右の腕は異常に長く、こちらは短い剣を握っている。枯れ枝のように細 〈続きを読む〉

ユーザーアイコン
作者:inout お題:幼い出会い 必須要素:サスペンス 制限時間:1時間 読者:72 人 文字数:3560字 評価:1人
碁盤目のように規則正しい街並みは、ここが最近区画整理された土地であることを示している。そこを一人さみしく夜道を歩いていた、もちろん、これには理由がある。決して夜 〈続きを読む〉