お題:彼のぬるぬる 必須要素:マフィン 制限時間:1時間 読者:43 人 文字数:3330字 評価:0人

密室から密室
一立方メートルもない透明な箱の中に粘液状のものが蠢いている。
色は赤黒いとしか言いようがない、実に不気味な色彩だ。
これは一体なにかと所長に尋ねたところ、「俺のぬるぬる」と意味不明の返答を頂いた。
以降、これを正式に「所長のぬるぬる」と呼称することにした。
所長にも紙面にてそう伝えたところ、却下された。げせぬ。


私の当面の仕事は、この仮称ぬるぬるの観察及びデータ取りだ。
一日に数度、水や固形物を与える他はいたってやることの無い作業。他とも並行して行える気楽な作業だが、所長からは「くれぐれも油断しないように」とのお達しが。
何か危険なことがあるのかと尋ねると、下手な口笛を吹いて去った。
その内、転倒した振りをしながら、ぬるぬるの入った容器をぶつけてやることを決意する。


朝夕にて違いはあるものの、平気温度は36.6℃のようだ。
生物の温度としてはさして高いとはいえないが、粘体の温度としては異常に高い。
内在する器官もなく、循環系を備えている様子でもないのに、一体どうしてこれほどまでの高音を維持しているのだろうか。
一度解剖、あるいは実験してみたいものだが、水やエサをやる以外の時に箱を開けることは厳重に禁止されている。
わざわざ二重にロックされた専用ケースの中に入れ、わたし自身も外へと出てからようやく遠隔操作で開封するのだ。この際、ケースや部屋のロックに問題があった場合、この開封は行えないようになっている。
やはり、これは危険なものではないか?
再度問いただしたところ、所長は笑顔で「とてもいい質問だ! それに気づいた君ならばこの件を任せられる!」とのたまった。
とりあえず褒めてから無茶な要求を突き付けるいつものパターンだった。
私はクソ重い透明ケースを一生懸命に持ち上げた、もちろん、所長を睨みながら。
所長は笑顔のままで高速後ずさりで部屋から出て行った。


ある程度は順調に進んだぬるぬる観察だが、若干の問題が生じた。
いや、さほどの問題ではないといえばそうなのかもしれない。
相変わらずのルーチンのような作業、少しばかり油断してしまったのだろうか。あるいは、朝食はもちろん昼食も抜いたために小腹が減っていたためだろうか。
私はむしゃむっしゃとマフィンを食べながら一連の作業を行ってしまった。
例の水およびエサをやる作業だ。
その際、わずかばりマフィンの欠片が、どうやらエサに混じってしまったようなのだ。
いつもであれば「こいつ本当に食ってるのかな」と疑わしほどゆっくりと、時間をかけて静かに行われるぬるぬるの摂食作業が、部屋二つ分は離れた私のところにまで伝わるほどの歓喜っぷりを見せつけた。
具体的には専用ケースがドタバタと大変に暴れ出し、密室内を転がりまわった。
あかん、毒をやってしまったのか、何かのアレルギー反応が起きたのかという私の罪悪感と悪寒は幸いにも、あるいは不幸なことに外れた。
時間が過ぎて透明ケースが再び閉ざされ、おそるおそる見てみると、その内側に奇妙な模様があった。
否、それは赤黒い色彩の一部を白色にさせ、文字として伝えたものだった。
それは、こう書かれていた。
「マフィン、うめえ」と。
コイツ、知性あったのかよ。


一体どういうことなのかと所長を問い詰めるものの、突然日本語が分からなくなったとばかりに大げさに肩を竦めて「HAHAHA!」と笑うばかりで話にならない。
エサにいくつかデザート類を加えてもいいかと許可を取ってみたところ、こちらは案外というか異常なほどあっさりと許可された。
不審そうな顔をする私に向けて所長は言った。「まあ、それくらいなら問題はないとも」と。
一体なにを隠していやがる。
不審、不可思議極まりないが、とりあえずはエサにコンビニで買ったバームクーヘンも加えておいた。
今回は高音の感嘆のような音が、凄まじい音量で響き渡った。
取り出した透明ケースの中には、
「神、まじで神」と書かれてた。
読点までつけているあたりが細かいと思う。


私のデータ取りには、体重温度体積の変化に、これらスイーツ等の反応も加わることになった。
どうやら煎餅などの塩醤油味系統のものはお気に召さないらしい。
「まあ、うん、悪くはないよ?」
という返答。
けれどかといって、甘ければ甘いほど良いということでもないらしい。
グラブジャムンという、世界一甘いとも言われているインドの菓子を与えたところ。
「ぱねえ加減を!」
と透明ケース一杯に、でかでかと主張した。
最後の「!」が細かく震えていた辺り、割とダメージもあった模様だ。
和菓子を入れれば「わびさび」と。
ラムレーズン入りの洋菓子を入れれば「お、やるねえ」と。
割と有名な洋菓子店のクッキーを入れれば「素晴らしい小麦とバターのハーモニー、くどすぎず軽すぎず最適なバランスに調整された上に垂らされたブランデーの一滴の香りが――」とか四面全部を使って書き連ねてあった。
ちなみに、スイーツ関係なしの、ごく普通にコミュニケーションを取ろうとすると失敗した。
自らの一部の色を変える関係上、どうしても疲れる作業であるらしい。
単に食い意地張ってるだけなんじゃないかとは正直思う。


私にも不定期ではあるものの休みはある。
労働基準法も、不完全ではあるが機能している。
そして、たまの休みでリフレッシュしつつ、あのぬるぬるに今度は何をやろうかとか探索し、充実感を胸に眠い目を擦りながらいつもの道を向かうと、燃えていた。
研究所が。
何が起きたのか呆然とする私に、よろよろと所長が近寄った。あちこちが煤けている。
事態の説明を求めると、所長は沈痛な顔で言った「不幸な事故なのだ」と。
曰く、いつも甘い物ばっかだと飽きるだろうからと、唐辛子入りのチョコレートを上げてみたのだそうだ。反応は、割と激烈、明らかに絶叫を思わせる音と高速で暴れまわる様子が伝わった。
所長は、うむ、と頷き考えた、どうやら喜んでくれているようだぞ、と。
だから次は更に辛いものを入れてみた。更に暴れ、更に泣き叫び、ずっと透明ケース内をぐるぐると暴れ割り続けた。
その様子を見て、所長は額に手を当て、さすがに反省した。
ああ、ちょっと物足りなかったみたいだね、と。
そして、秘蔵のというか彼自身一回試してもうこりごりだった第炎上激辛スナックに、ちょっとしたアクセントとしてデスソースを加えた上で投入した。結果、炎上した。物理的に。まっさきに襲い掛かられた所長は、全速力で逃げたのだそうだ。
馬鹿ですか、と私は素で言った。
所長は「何が悪かったのかなあ」と本気で分かってなさそうな顔で言った。
退職金代わりにその鳩尾に蹴りを入れた。


何もしていないというのに普段以上に疲れた体で帰宅することになった。
手にしたお土産というかお菓子は、私が消費しなければならないことになるだろう。
割とカロリーあるのに。
運動不足はなぜ堆積するのかと嘆きながら扉をあけると、ひし、と足首あたりになにかが絡んだ。
やけにぎこちない、力を入れない様子。
なんだと見れば、見慣れた赤黒い液体が、透明ケース越しではなく直接的に接触していた。
のみならず、造形が違っていた。
ごく小さくはあるが、手と足と顔がある形――要するに、透明な小人のような姿で、そこにいた。
必死に、何かを訴えるように、私を見上げている。
あー、と私の脳味噌はくるくると空転する。
どうやってここまで来たのか、とか。
その姿って本来のか、それとも擬態なのか、とか。
これって報告しないと色々面倒なことになるんじゃないか、とか。
いやいや他に頼れる人っていないのかよ、ああ、うん、いないよね、そりゃあ、とか。
けれど、じっと見上げるそのぬるぬるを前に、色々なことがどうでも良くなった。
「……食べる?」
今日与えるはずだった洋菓子の袋を持ち上げて訊いた。
その透明な子は、両手を上げて半端に開いた私の部屋へと「わーい」とばかりに入った。
「まずは手を洗ってから、って必要あるのかなあ」
私もまた部屋へと入り、扉を閉めた。






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