お題:彼のぬるぬる 必須要素:マフィン 制限時間:1時間 読者:62 人 文字数:3008字 評価:1人

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 風呂上がりに冷蔵庫を確認すると、ビールが冷えていた。このところ暑くなってきたから、ますます酒がうまい。コップに注いで、髪が自然乾燥するのを待つあいだ、ゆっくりと味わった。
 ――半分ほど呑んだところで、テレビをつける。面白そうな番組はなかったので、録画した映画でも見ようとハードディスクを起動し……。
「誰だ、お前」
 物音に気づいたらしく、今起きだしてきた家主の男が、リビングの入り口で目を丸くしている。彼が冷やしておいたビールを呑み、彼のシャツとズボンを身に着け、彼の家のリビングでくつろいでいる見知らぬ相手。彼は目をこすり、見知らぬそいつが驚いたふうもなくコップに口をつける様子を見て、何度もまばたきした。
「夢でも見てるのかな」
 彼は首をかしげ、眠気覚ましにひとっ風呂浴びようと浴室に足を向けた。
 その直後、リビングにまで届くほどの大きな絶叫が響いた。
 泡を食って戻ってきた彼は、テレビにリモコンを向けている見知らぬ相手に詰め寄り、なにやら浴室のほうを指さして、要領の得ないことをわめき散らした。
 シャツの首元を掴まれ揺さぶられ、録画リストの確認もままならない。ひとまず家主を落ち着かせようと、コップを逆さにし、残ったビールを浴びせかけた。
「つめたい」
 家主は落ち着いた。目を両手でごしごしこすって、入り込んだビールを追い出すと、あらためて見知らぬ相手に問いかけた。
「あの風呂の惨状、あれはどうなってる。得体のしれないぬるぬるしたものが、排水口から床から壁にまでこびりついてる。スライムみたいにねばりけがあって、しかもだ、見てるとまるで生きてるかのように動くんだ」
「そうか」
「あれはお前の仕業だな、この家のなかで昨日と変わったことなんて、お前くらいしかいないもんな」
 ばれてしまっては仕方ない、というように、見知らぬ相手は肩をすくめ、そこからべつに説明をはじめたりはせずに映画を観ようとするので、家主はリモコンを取り上げた。
「説明しろ」
「じつは、私は風呂場の排水口から現れたんだな」
 一言だけ言ってリモコンを取り返そうとするので、家主は背中のうしろにリモコンを隠した。
「それで」
「……で、シャワーを浴びて、ビールが冷えてたから呑んでた」
「あのぬるぬるは」
「私の軌跡だよ。動いた跡だ。というのも、私は今さっき誕生したばかりだから、羊水に濡れていたわけだ。自分の足で立つのに手間取ったから、床や壁に這いずった跡が……っと」
 見知らぬ誰かは家主に飛びついてリモコンを取り返した。嬉しげにテレビに向けるが、どのボタンを押しても反応がない。家主はこっそり抜いた電池を寝巻きのポケットにしまった。
「信じられないな。お前ほどの大きさのものが、狭い排水口の奥で生まれるはずがない」
「じっさい生まれてしまったんだからしょうがないだろう。掃除を怠っていたな、ぬるぬるの髪の毛がいっぱい詰まっていた。だから私は髪が長いわけだ」
 わけだ、と言われても、全然知らない相手が家で我が物顔でくつろぐのには納得いかない。しかも赤ん坊や子供のように小さいのならともかく、サイズは成人ほど、ふてぶてしくも朝から勝手にビールを呑む存在とあれば。
「出てってくれ」
 玄関を指差すと、とたんに相手は心細そうにした。
「生まれたばかりの私には頼る相手もいない。ビールの味を覚えてしまったのに、手に入れる手段もない」
 先ほど家主にぶっかけたビールは最後の一本だった。「映画を観ようとしたのも生まれたての知的好奇心を満たそうとしてのことだ。赤子も同然のそんな私を無一文で外に放り出すなんて、君に人の心はないのか」
 家主は無言で財布から千円札を一枚取り出し、相手の手のひらに押し付けた。見知らぬ相手は飛び跳ねて喜び、スキップしながら玄関まで走った。
「そのへんのコンビニで、ビールを買ってくる!」
 元気のいい声が外に消えたあと、家主は戸を閉め、厳重に鍵をかけた。あいつはなんだったんだろう、と首をかしげ、休日が一日、風呂場の掃除に費やされそうなことにげんなりした。

 パン屋の娘は、今朝のマフィンの出来に満足していた。彼女の実家が経営するパン屋は年中無休、休日だって関係なく早起きして仕込みをはじめる。店の目玉は、日替わりの手作り菓子で、カップケーキやクッキーなど、レシピも娘が考案して一から作っている。
 手間はかかるが、客には好評だった。飽きられないよう常に新作を生み出すため、たまには失敗することもあるが、いずれパン屋を継ぐことになる娘の成長を、常連客はあたたかく見守っていた。
 さて、あとはシンクを片付けて、開店の準備を……。
 と、調理場で彼女が振り向いたとき、そこに見知らぬ誰かがいた。
「もごもご」
 シンクに腰掛け、試作品のマフィンを口いっぱいに頬張っている。娘はきょとんとして、その髪の長い誰かをじっと見つめた。
「もごもご……」
「あの、食べてから喋ってください」
「ごくん。なかなかの出来だった。ブランデーがきいていてとてもいい。私は酒の味を覚えてからというもの、酒のにおいにつられてつい現れてしまうのだ」
 おっとりとした性格の娘は、なんだかよくわからないけど、と頬に手を当てて小首をかしげた。戸締まりはしていたはずなのに、この人、どこから入ってきたのかしら。
「もうすぐ店が開店するので、次は表から入ってきてくださいね。買ってもらえれば、そのマフィン、食べられますから」
「買って……」
 そこまで言って、髪の長い誰かは肩を落とした。なにやら物悲しい風情だった。迷子になった子供のようで、こころ優しい娘は心配になった。
「どうしたの」
「ビールを買ったけど、お釣りならあるんだ」
 誰かはポケットから小銭を出し、マフィンの代金よりすこし多い額をシンクのうえにちゃらちゃらと落とした。
「お金、持ってるんですね。おばけみたいに現れたから、てっきり」
「くれた奴がいたんだ。そいつの分も、ビールを買ったんだ。なのに、鍵が閉まってて、家に帰れないんだ」
 そう言うと、誰かは膝を抱えてめそめそ泣き始めた。悪いことをして外に閉め出された子供の悲痛そのものだ。娘は同情し、多くもらった小銭の分、マフィンを包んで渡してやった。
「かわいそうに。これでも食べて元気を出して」
「ありがとう、いい人」
「思うんですけど、どこから現れたかわからないあなたなら、家を閉め出されても入る方法くらい、あるんじゃないの……」
 誰かはぱっと顔をあげ、ぽんと手を打った。
「そうだった。それがあった」
 言うやいなや、長い髪がするするとシンクの排水口に吸い込まれていき、またたく間に誰かは姿を消した。全身が髪のようにほどかれて消えたようだったけれど、寝不足の娘の見間違いかもしれなかった。
 だけど見間違いではない証拠に、シンクはぬるぬる汚れている。もし見間違いでなかったのなら、お金をくれた誰かと一緒に店に来てくれるといいな、と娘は思った。

「ただいま!」
 やっとのことで風呂掃除を終えたとき、キッチンのシンクのほうからそんな声が聞こえて、家主は耳を塞ぎたくなった。聞き間違いであってくれと願いながら、掃除が必要になる未来を予期して、スポンジと洗剤を持ってキッチンに向かった。

  

 



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