お題:彼のぬるぬる 必須要素:マフィン 制限時間:1時間 読者:18 人 文字数:2574字 評価:0人

君と紡ぐ未来の思い出
カーテンから零れる光で、意識が浮上する。

「んー…」

ゆっくりと背伸びをする。

瞼を擦り、目脂を取る。

(顔、洗わなくちゃ……)

フラフラと立ち上がり、洗面台へ向かう。

「……ふーっ」

顔を洗い、タオルの感触を堪能する。

(朝……か)

名残惜しい感触を捨て、洗面台の横にあるカレンダーに目を通す。

そこに書かれている小さな赤い丸。

それは、今日という日を忘れないようにするための合図。

(……)

もう一度、顔を洗う。

まだ、泣いていない。

今、泣いてはいけない。

一日は始まったばかりなのだから…。

ゆったりとした足取りでリビングへ向かう。


(良かった…)

天気予報では雨という話だったが、どうやら外れてくれたようだ。

窓の外には快晴といわんばかりの、雲一つない空が広がっていた。

「さて…と」

台所へと向かい、顔をぱんっと叩く。

彼が大好物だった"マフィン"。

それを作るために、材料を並べる。

バニラエッセンスを手に取った際、ふと記憶が流れた。

『それ、なんに使うの?』

彼は普段料理をしないから、用途なんて知らずに舐めていたけれど。

そんな、なんてことない思い出。

それなのに、どうしてこんなにも、胸が苦しいのだろう。

それは、彼のことが愛おしかったからだろうか。

それとも、彼のことを忘れようとした罪悪感だろうか。

きっと、どちらも正しくて、どちらも間違いだ。

その答えは闇の彼方に葬られてしまったから。

(……泣かない)

泣いても、彼が戻ってくることはないから。

だけど、歯止めを失った感情は涙腺を決壊させる。

「うっ……うぅ……」

どうして。

どうして、彼がいなくならなければいけなかったの。

住む世界が違う。

ただ、それだけの話。

だから、私にはどうしようもできない。

彼との思い出が、例え3日限りのものだったとしても。

それでも、かけがえのない思い出だったんだ。

72時間の彼との思い出。

蘇る記憶の数々。

それが、記憶の中で再生され続ける。

もっと、長い間一緒にいた気がした。

けれど、私と彼の時間は72時間。

正確に言えば、54時間の邂逅。

彼との思い出のどれもが、美しくて、儚くて、切なくて。

自問自答を繰り返す。

もしも。

もしも、運命というものがあるのなら。

いや、もしも、過去に戻れたら。

彼ともう一度逢いたい。

もう、この世界にいないと知っているけれど。

それでも…。

目を瞑る。

脳裏には、彼の笑顔が浮かぶ。

(……ダメだ)

その顔を見て、今の思考の全てを打ち消す。

彼とは、別れたんだ。

それぞれ、別の世界で生きるために。

彼がこの世界ではない、元の世界に帰るために。

だから、これは私のエゴ。

覚えていても、きっとなんの役にもたたない。

むしろ、忘れてしまった方がいい思い出。

彼とのことを引きずっていたら、この先ずっと後悔し続けるから。

目を開け、ぱっと前を見つめる。

その先にある材料を手に、マフィンを作り始める。

何故、彼がマフィンを好きだったのか、その理由を最後まで聞くことはできなかった。

だけど、彼がマフィンを好きだったということは、知っている。

だから、今はそれだけでいい…。

一時間後、オーブンで焼いたマフィンが並ぶ。

そのうちの一つをラッピングしてカバンの中に入れる。

「…行ってきます」

部屋の鍵を閉め、外に出る。

ただ、目的地へとむけて歩みを進める。

そこは、雑木林の奥深く。

彼と別れを告げた場所。

「……こんにちは」

何も無い空間で声を出す。

当然、返事はない。

虚しい気持ちが胸の内を埋め尽くす。

(そうだよね…)

彼は、もう帰ったんだ。

この場所から、自分の世界に。

この世には、稀に旅人が現れるという。

それは、この世界とは別の世界から現れるそうだ。

彼も、その一人だった。

そして、彼を元の世界に戻す方法…。

それが、彼を亡き者にすることだった。

だから、私は彼に協力した。

彼は、どうしても元の世界に戻りたかったみたいだから。

「懐かしい、ね」

声を零す。

私にはこれくらいしかできないから。

彼が、あれからどうなったかしらない。

もう、この地に足を踏めない身体になっているかもしれない。

いや、むしろ霊体になっているのかもしれない。

そのどれもが空想で、現実だ。

「私、頑張ったんだ」

彼と会って、私の世界は色を変えた。

まるで、きらきら星のように。

眩く世界で、未来を見据えていた。

「……やっぱり、会いたいよ」

もう一つの世界に帰ってしまった彼。

黄泉の国とやらは、とても暗い世界で。

だからこそ、一緒に連れていけなかったようだ。

「……」

いっそのこと、一緒に死のかともおもってしまった。

だけど、彼の残した最後の言葉が、私を現世に留まらせていた。

『よく頑張った、なんて言わない。
お前にとって、頑張ることは当たり前だから。
だから、俺はお前にこう残す。
生きろ。
生きて、明日を迎えろ。
終わりが訪れる、その時まで』

きっと、彼なりの気遣いだったのだろう。

けれど、それが未だ心に残っている。

本当は、もっと話したかった。

もっと、知りたかった。

何故、こんなにも彼に惹かれているのか。

それはわからない。

これが"恋"というのなら、なんて残酷なのだろう。

忘れた方がいいというが、それができたら苦労しない。

「……これ、置いておくね」

丁寧にラッピングされたマフィン。

それを、床に置く。

ふと、そのまま地面を見つめる。

そこには、赤い池ができていた。

(まだ、残ってる)

彼を帰した時に出た液体。

未だ、その場所から消えることはない。

これこそが、彼の残した最後のもので、彼との思い出を語るもの。

「……それじゃあ、ね」

ゆっくりと、正面を向く。

そして、その場所に背を向けて、歩き始める。

さようなら、私の初恋。

さようなら、名も無き彼。

そよ風は、彼女の髪を小さく揺らした。


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