お題:蓋然性のある境界 必須要素:美しい情景描写 制限時間:1時間 読者:20 人 文字数:3095字 評価:1人

同行者
踏み出した足の感触に、ふと我に返る。
俺は、いったい今、何をしているのか――

疑問に思うよりも先に更に歩を進めた、自動化された動作、わずかな斜面を足裏に感じ取る。まるで機械のようだと我ながら思った。

2月にしてはやけに寒い空気へと、白い息を吐き出す。周囲の霧はそれよりも更に濃く白かった。風呂桶に入れた温泉の元のようだと、情緒の欠片も無い感想が浮かぶ。

ああ、そうだ――
納得と共に思い出す。忘れていた写真が浮かび上がるように、言葉が脳裏に現れる。
俺は、この山に、登りに来たのだ。

だから、足首をがっちりと固めた山岳靴を履いているのだし、外の凍える冷たさを入れない防寒着に身を包んでいるのだ。
当たり前すぎる事実が、まるで世紀の大発見のように思えた。

歩く、登る、前へと進む。
そのたびに思考が蒸発した。肉体の苦しさに押されて、安い考えの全てが揮発していく。
周囲の濃い霧も相まって、まるで夢でも見ているようだ。

標高としては大したことのない山であっても、登山道から離れて独自の道を行くとなればその難易度は異なったものになる。ただ登ればいつかは頂上に着くという当たり前でさえも、時には怪しくなる。コブのように盛り上がった地形が、ここは多い、アップダウンを繰り返す内に下がり続ける歩行を怪しまなくなる。

登れ、登れ――

だから俺は、呪いのように己にそう言い聞かせた。
体は苦しさから逃れようと、安易かつ樂な方へと流される。揮発しそうな理性を集め、言うことを無視しがちな肉体を叱咤する。

なぜ、俺は登っている?

ほとんど残っていない理性が、純粋な疑問の声を上げた。
俺の理性は、それに対する答えを持っていなかった。



肌に当たる空気が、変わった。
相変わらずの白い景色、次から次へと空気に押されて迫る白色の塊。景色として見れば何一つ違いが無いと言うのに、確かに変化があった。

「なんだ、一体」

答えを求める声に返答はない。
ただ、無性に寂しさを感じた、心もとなく寄る辺のない不安があった。この場が山の途中ではなく、無限に広がる平面のように思えた。実際、勾配もかなり緩やかなものとなっている。

俺は、足元を確かめ、ゆっくりと歩き出した。
一定間隔で、草木を踏み、土を蹴散らす音が続く。吐いて出す呼吸の大きさを、まるで他人事のように感じる。背負うリュックのベルトを、強く握りしめる。

白い景色は変わらない、幻のように景色が次から次へと現れる。見える範囲がひどく狭い。

これは、辛い。
素直にそう思った。人は、こんなところに一人ぼっちでいるべきではない。

そんな俺の寂しさが招いたのか、足音が聞こえた。
左方向、はじめは遠く、やがてハッキリと。
聞き間違いなどではなかった、俺自身の足音と重なることもあるが、異なるタイミングでも鳴っている。

早くもなく、遅くもなく、ただ己のペースを守り、登っている者の足音。
顔も知らない同行者。

声をかけるべきだ、と思う。
同時に、このままの状態でいたい、とも思う。
タイミングを失った挨拶ほど、斬り出すことが難しいものはない。

相変わらずの寂しさのようなものは、まだ一向に薄れない。この同行者の存在は、わずかな慰めにもなった。
ひょっとしたら、この足音は俺が作り出した、ただの幻であるのかもしれない、だが、それでもかまわなかった。寄る辺の無さに、一つのロウソクが灯ったように思えた。

あるいはこれは、惑わすものかもしれないが。
悲鳴を上げ続ける肉体が作り出した、樂な方へと導かんとする幻聴、その線だって在りうる。
よくよく聞けば、左方面にいる同行者は、俺よりもわずかに遅れてついてきているように聞こえた。
遠ざかりもせず、近づきもせず、ただ一定距離から、戻る方面へ誘うように足音を響かせている。

はは、と喉の奥で笑う。
我ながら突拍子もなさすぎる考えだ。長く動かしていなかった顔表面が、無理な動きに抗議をした。

だが、あるいは、『こういう奴』が、彼女の元にもいたのかもしれない。
そうして、誘われて行ってしまったのかもしれない。
そんな考えもまた、ついでのように出ていた。

山登りは、もともと彼女の趣味だった。元は拾ってきたという犬と一緒に方々に出かけては、散歩ついでのように登山までしてしまうのだ。
何回か一緒について行ったが、その健脚を前に俺の脚はあっという間にギブアップを宣言した。ひょいひょいと気軽に昇り行く彼女と、それ以上の軽快さで跳ねるように登る犬の姿、いつだって思い出されるのはその背中だけだ。

休みの度に出かける彼女、だから、戻って来ないと知ったのも、しばらくの間を開けてからだった。

まさか、という想いは、時間が経つにつれてその重さを増した。十分間に一グラムずつ足される重りのよう。気づけば、取り返しがつかないような質量になっている。

様々な人が協力したが一向に見つからず、一カ月が過ぎた。

そして俺は、山を登っている。
彼女が昇った、この山を。




見つかる、などとは思っていない。
あるいは、見つかってくれるなと、そちらの方を強く思っている。
どれほど可能性が低いとしても、それは確定した事実ではない、彼女は、なんらかの理由で何もかもが嫌になり、姿を消しただけかもしれないではないか。

だったら俺は、どうして登っている?
知るか、俺が登りたかったからだ。

純粋な疑問に、即座に苛立ちを返す。

そんなわけが無い、俺は運動することが好きではなかった。
俺がそうしたかったんだよ、携帯を睨み続けるのは、もうゴメンだ。

ああ、そうだ、そうだった。
電気もつけない部屋で、ただその知らせを待ち続けるのが耐えきれなかった。

……俺は、弱虫だ。
知っている、俺は誰よりも弱虫だ。

その証拠に、俺は周囲をまったく調べていない、言い訳のようにただ登っている。頂上まで行けたとして、得られるのは卑小な満足感くらいだ、そんなことは分かっている、俺は何かをしているという言い訳をしているだけだ、さぼって遊んでいるのと何一つ変わらない。

見つけたい、いや、見つけるふりだけをしていたい、蓋然性だけがあればいい、この白い霧のように、何もかもが曖昧であればいい、あるいは、同行者の足音のように、その存在だけを知らせてはくれないか。

歩く、登る、道なき道を進む。
同行者の音、その足音、すらりと伸びた足。
すらすらと姿が思い浮かぶ。左側、付いて来ている同行者――彼女の姿が。

足を止める、後ろを振り返り、見る。
瞬間、風が渡った。
濃い白の塊と塊、その隙間を縫うように景色が垣間見えた。
吹き渡る空気、俺のすぐ左側には、何もなかった。
切り立った崖がぽっかりとその口を開けていた。
僅かに足を滑らせれば、そのまま真っ逆さまだったろう。

稜線はそのラインを露わにさせ、緑と木々のざわめきと、それ以上に圧倒的な広さを俺へと知らせた。
茶色の多く点在する景色、ただ道の半ばの、頂上ではない盛り上がり。
俺から見て左側、その盛り上がりの上にいた、人ではない、犬だった。

彼女の飼い犬だ。

まっすぐに、俺のことを見ていた。
糾弾するように、あるいは、哀願するかのように。

――どうして、一匹でいるんだ?
疑問は、浮かんだ先から答えへとつながっていた。
そんなの、決まっているではないか。

蓋然性が取り払われた景色の中。
一人ぼっちの犬は、悲しく高く、遠吠えを空へと響かせた。







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