お題:悔しい医者 制限時間:30分 読者:30 人 文字数:1246字

病院の中の、診療室の中で
「はい?」

 ステンレス製の長机と、二脚の椅子だけが備えられている簡素な一室で、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。それとは反対に、対面に座している柔和な笑みを湛えた20代半ばの女性は、朗らかに弾むような声音で思いを述べた。

「あたし、ようやく病気が治ったんです! 最初は失礼ですけど、本当に治るとは思ってなかったんです。これもひとえに先生のおかげです。本当にありがとうございました」

 複雑に混乱する私の内情を知ってか知らずか、女性はこちらに向かって深々と頭を下げた。現状を飲み込めてきたが、いまだにその事実を受容することができない。唇を固く結び、一呼吸置くと、意を決して話してみた。

「でも、油断は禁物ですよ。まだ完全に寛解したとは限りません。再発の危険性だってあります。ここは、慎重に診断をもうしばらく重ねて、様子を見ながら経過を見ることをオススメいたしますが」

 鷹揚に、医師としての考えを提案してみたが、案の定、女性は満面の笑みを浮かべて、温かい眼差しでこちらを眺めやった。

「平気ですよ」そこに少しの迷いも生じていない。「あたし、わかるんです。今までつらいことがいっぱいあったけど、これから先は不安に思わないんでいいんだって。あたしはこれから、幸せな人生を歩くことができるんだって」

 だから本当に、先生には感謝してもしきれないんです。柔らかく包むように、感謝の意を舌に載せる。誇らしげに背筋を伸ばして、その双眸は遥か遠くに待ち望んでいる、大いなる希望と幸福だけを見ていた。
 どうしたものだろうか。下手に引き留めれば、より深く、強い抵抗を生むことだろう。だがしかし、このままでは症状の悪化が避けられない。少しでも落ち着かせて、この場に留まることに意識を向けなければ。

「明るく前向きな気持ちを持つのは良い傾向です。決して悪いことではありません。あなたも大変な苦労をなさってきたのですから、少しでも多くの幸福を早いうちから手に入れたくなることでしょう。ですが、本当に焦ってはいけません。せめて一日だけでも、日を置いて改めて考えてからでも遅くはないのでは」

 なるべく早口に、しかし患者の心を刺激しすぎないように諭すように言葉をかけた。一瞬、患者の目に不安の色が滲んだが、それもすぐさま掻き消えて、薄らと微笑だけを残す。

「先生は私の気持ちなど、永遠にご理解なさることがないんでしょうね」

 その言葉を皮切りに、彼女は椅子を蹴るように立ち上がり、一目散に室内の扉へと駆け寄った。

「ダメです!」

 強く引き留める声も彼女の耳には入らず、部屋の扉を押し開いて、体を部屋の外へと踊るように放り投げた。
 彼女の姿が消えたのは、一瞬のことだった。震える手を抑えながら、じりじりと開け放たれた扉に近付き、本来あるべき床に視線を落とす。そこに床はあらず、空間がぽっかりと穴を開けて、どこまでも続く深淵の闇が大きく口を開いていた。

 もう、彼女の声も聞こえない。
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