病的なプラス
大学で知り合ったイガラシは、相当なプラス思考の持ち主だった。
どんな時も明るいし、誰かが挫けたようならば励ます。理想的な人間に最初は見えた。
だが、友達付き合いを続ける内に、「これは最早病気では?」と思うようになった。
最初に違和感を覚えたのは五月の下旬ごろ、ある講義のレポートの締切が迫っていた時期だった。
「え、中間レポートの内容?」
「そう、聞いてなくてさ」
イガラシは臆面もなく、そう僕に尋ねてきたのだった。
「いや、毎回出てたのに……何で聞いてないの?」
「聞いてなかったから」
質問の意図がわからなかったかのように、イガラシはきょとんとしていた。
まあそういうこともあるか、あるのか……? 戸惑いながらも、僕は範囲を教えた。
「ありがとう。君と話すチャンスになってよかったよ」
そういういいとこ探しもあるんだな、と僕は納得することにする。
「明後日までだから、頑張ってね」
「大丈夫! 追い詰められたら、人間すごい力が出るんだよ」
それが体験できるのだからすごくいいことだ、とイガラシは付け加えた。
そして、提出日。イガラシはレポートを出せなかった。
追い詰められたら出るすごい力は、発揮されなかったらしい。
「中間レポート出せなかったら、これもう単位取れないでしょ……」
何やってんの必修だぞ、と呆れる僕に、イガラシはあっけらかんと笑う。
「来年も同じ講義取れるじゃん。得したよ!」
どこがだよ、と思ったが口には出せなかった。
イガラシの目が本気だったから。茶化したのではなく、本気でそう思っているようだったから。
これが、最初に覚えた違和感だ。
この違和感が決定的になったのは、あの夏のバーベキューでのことだ。
春学期の終わり、地元に帰省する前に、同じ学科のまあまあ仲のいい20人ほどが集まって、大学近くの河原でバーベキューをした。春学期の打ち上げと言ったところだ。
大学一年生の僕らは、成人済みと未成年が大体半々。僕は飲めなくて、イガラシは二浪したらしいので、飲めるそうだ。
で、このイガラシが瓶ビールを持ってきた。20本くらい茶色の瓶が並び、歓声が上がる。
じゃあ開けようぜ、となった時に、栓抜きがないことに気付く。瓶ビールを持ち込んできた張本人のイガラシも、持っていない有様だった。
「大丈夫! こうすればいいよ!」
突然イガラシは瓶ビールの一本を手に取ると、地面に叩きつけた。
しかも、土の上だ。石のタイルとかではなく、そこに埋まっている天然もののごつごつした岩にぶち当たる。突然のエキセントリックな行為に、みんなドン引きだった。
瓶は粉々に割れ、ビールが地面に浸みこんでいく。もったいない、と誰かが言う中、イガラシは地面に腹ばいになると、なんと浸み込んでいくビールをすすり出した。
「うーん、美味しい! 土の栄養も取れて一石二鳥!」
ほら、みんなもやってみなよ! そう言ってイガラシは、あのマジモノの目で振り返った。
結局、隣のグループから栓抜きを借りられたので、酒飲み勢が地面からビールをすする危機は回避された。
バーベキューの出来事もあって、イガラシは秋学期から孤立し始めた。
話しかけてきたら、まあ中に入れてやるけど、あいつを積極的に誘う人間はいなくなった。
「いやいや、イガラシって人、あの前から女子の間じゃキモがられてたからね」
そう僕に教えてくれたのは、ナカジマという同じ学科の女子だった。
「あいつさ、四月の二週目ぐらいから、手当たり次第に同学年の女子に告白し始めたの」
片っ端からだよ、とナカジマは鼻息を荒くする。
「まあ、びっくりするしさ、断るじゃん?」
イガラシの見てくれはよろしくない。小柄でメガネで小太りで、どちらかというと小汚い。
「そしたら、何て言うと思う?」
ナカジマは両腕をさすりながら、心底気持ち悪そうに続ける。
(好きな女の子の本音が聞けてうれしいよ!)
それは何ともイガラシらしいセリフだ、と僕は思った。
「ちなみに、ナカジマは告白されたの?」
そう問うと、ナカジマはその日一番暗い表情になった。
「……思い出させないでくれる? マジ最悪だったんだから」
告白されたのか、片っ端からされてるのに一人だけスルーされたのか、その言葉だけではわからなかった。
翌年の春、二年生に周囲の多くが進級した頃になると、最早イガラシの姿を大学のキャンパス内で見かけることはなくなっていた。
「例のあの人、二浪して入ったって割に、消えるの早いね」
何となくで僕と付き合うことになったナカジマは、そう言って笑う。ナカジマの前では、イガラシの名前を出すのはタブーであった。
イガラシの消息は、意外なところで知れた。
「何か、あの、地面にこぼれたビールすすってた人いただろ? あの人、警察に逮捕されて退学なったらしい」
マシコという、あのバーベキューを企画した男子学生から、僕はその話を聞いた。
「銃刀法違反だって。何か、すげーデカいナイフ持ってたとか聞いた」
へー、と僕は相槌を打つ。
「ナイフで何するつもりだったんだろうな? コエーわ、ああいう陰キャ。何するかわからんし」
「前向きに人を殺すつもりだったんじゃない?」
マシコは「は?」と眉をひそめる。
最早イガラシは、その名前も「病的にプラス思考」だということも忘れられ、学年にいた変人ぐらいの認識になっているらしい。よく考えたら、僕も下の名前を知らなかった。
その下の名前を知ったのは、三年生に進級してしばらく経った、そうあの最初に違和感を覚えた出来事からちょうど2年後のことだった。
イガラシは人を殺したのだ。
例のバーベキューをした河原で、通り魔事件を起こした。三人をナイフで刺し、一人が死んだ。
周囲の人間に取り押さえられ、駆け付けた警察にその場で現行犯逮捕された。
取り調べに対しイガラシ「容疑者」は、「警察に三度も捕まる経験ができてラッキー」「大丈夫、今度はたくさん持ってきたから」などと供述したそうだ。
犯行当時、イガラシはリュックを背負っていて、ごく初期の報道によれば、その中には凶器として用いたのとは違うナイフの他、大量の栓抜きが入っていたらしい。
場所も、栓抜きをたくさん持っていたことも、決して偶然ではない。僕は確信していたが、学部の中でそこに触れる人間はいなかった。
「何か、銃刀法違反で二回ぐらいしょっ引かれてて、それで三回目でこれでしょ? 怖くね?」
まだ僕はナカジマと付き合っていた。ナカジマの前でイガラシの話はタブーだったのだが、ここぞとばかりにしゃべり出した。
「そもそも栓抜きとか目的わかんなくない?」
わかるよ、とは僕は言えなかった。
こうして、「プラス思考の男」は、「病的なプラス思考の男」から「ビールを土ごとすすり出す狂人」、「銃刀法違反」を経て「殺人者」に成り下がり、僕らの青春の思い出の一ページとして、「ああ、そんな事件あったねぇ」と消費される存在となったのだった。
やはり、プラス思考なんてロクなものじゃない。僕はその認識を新たにした。
そう、イガラシが「病的なプラス思考の男」ならば、僕は「偏執的にマイナス思考の男」だ。
受からないんじゃないか、としか思えなかったから、たくさん勉強して大学に合格した。
忘れてしまうんじゃないか、としか思えなかったから、レポートの範囲はバッチリ押さえたし、余裕を持って書き終えていた。
肝臓がんになるんじゃないか、としか思えないから、今もビールは飲まない。
銃刀法違反で捕まるんじゃないか、としか思えないから、ホッチキスすら持たない。
断られる、としか思えないから告白しなかったが、ナカジマは自分から言ってくれた。
やはり、最高なのはマイナス思考なのだ。イガラシと自分を比べれば、そう思える。それが僕が唯一自分に対して、楽観的になれるところだ。
しかしながら、世の中ではプラス思考がもてはやされている。
就職活動の本を開くと、「プラス思考」「未来志向」「前向きな学生」の文字が躍っている。
やれやれ、と僕は頭を抱えるのだった。
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