お題:僕が愛した表情 必須要素: 制限時間:4時間 読者:33 人 文字数:10631字

お絹さんの話
気恥ずかしい話になる。とても恥ずかしい話だ。
それは私が幼かった頃のこと、近所にお絹さんという若いお姉さんがいた。若いとは言っても当時の二十八じゃ、行き遅れと言われる頃だった。お絹さんはたいへんな裁縫の名人で、私は妹と一緒によくお絹さんの家に上がり込んでは、出来上がっていくものを眺めていた。彼女は今は珍しかろう日本刺繍というのが上手だった。あの細っこい少しだけ浅黒い手から、着物にふっくらつややかな美しい花が蜘蛛が巣を作るみたいに生み出されていくのである。私たちは毎度それに驚いて、お絹さんの手を取ってまじまじと見つめるのだった。
お絹さんの手は今でもよく覚えているが、硬く、右の人差し指だけ爪がなくなっていた。彼女はいつも恥ずかしそうにその指を隠して「いやね、意地悪ねえ」と顔をくしゃりとさせる。毎回、若いくせに目尻にたまるシワが私と妹は大変好きだった。どうにも優しく愛嬌がころりと水滴のように溢れてくるのだ。
笑わない彼女は少し狐のようにツンとつり上がった目尻をして、気の強そうな唇をキュッと一文字にしている。それが笑うところりと変わる。目尻のシワは愛らしいもので、我々兄妹はそのお絹さんの表情が大好きだった。
お絹さんはお父さんの達治さんと二人暮らしで、お母さんは昔、結核だかでなくなってしまわれたそうだ。達治さんは兵隊に取られて帰ってきて、自動車の会社に勤めているのだという。達治さんも少しつり上がった目をしていて、笑うと彼女にそっくりであった。私たちはお絹さんに懐いたように彼にも懐いた。
彼は時折に仕事が休みの日なんかは一緒にキャッチボールをしてくれた。大変にうまいもんで、大学の時はエースだったのだと言っていた。本当かどうかはわからないが、私は今でもそうなのだと信じている。
お絹さんと達治さんはよく夕方河原を散歩していた。
私たちはそれに加わることはなかった。幼いなりに、あの時間は親子二人のためにあるものだと思っていたのだ。
河原の夕方はいつでも美しいもので黄金や赤に輝く太陽に黒くなっていく街並みや、電信棒から伸びるブランコのような線、ぴちゃぴちゃ揺れる乳黄色や紺の川の流れなんかは、私たちをいつでも少しツンと涙を出す前の寂しいような優しいような心持ちにさせてくれた。

ある暑い夏のことだった。
私たちはお絹さんの家にいつものように遊びに行った。すると、すすり泣くような声がする。私たちは顔を見合わせて、そうっとあがった。お絹さんは気がついていなかったようで、縁側の近くですんすんと肩を揺らし、袖で涙をぬぐっていた。か細くもいつもはピンを張られた背中が丸まって頼りなさげにひくつくので、こちらもとても悲しい心地がした。
草の生い茂る庭の緑が部屋に反射していて、どうにも憂鬱そうな心地にさせられる。お絹さんは茶色いスカートの上に刺繍を頼まれたのだろうお着物を置いている。それを握る手に薄く血管が浮き出ていた。
私たちはどうにも出るに出られず、玄関先に引き返した。
しかし、妹がはたと止まり「お兄ちゃん、やっぱり戻りましょう」と言う。
「なにを言うんだ。ああいうのはそっとしてるのがいいと、お母さんが言ってただろう」
「でも、お絹さんひとりぽっちよ。私、お絹さんの話聞くわ。それで慰めるわ。だって、お絹さんはお友達ですもの。慰めたいの」
「そうは言っても、友達だからって踏み込んでいいところと悪いところがあるよ。それに、お絹さんは大人だもの。子供が聞いてどうするの」
「どうもこうもありゃしないわ。そっとしておいたって、お絹さんきっと黙ったままなのよ。私、お絹さんのところに行くわ。もう決めた」と彼女はお絹さんの家に向かって走って行ってしまった。そうなると、私も弱ったもので、どうにもこうにも追いかけて行かなければならない。兄という生き物は損なものである。結局、妹の行動の尻拭いをさせられるのは、我々なのだ。
ともかく、私は妹を追いかけた。
彼女はガラリと戸を開けると「お絹さん!」と叫んだ。それにはさすがに気がついたらしいお絹さんは、喉がくっついたような頼りない声で「はあい」と返事をした。私は大変気まずかったが、度胸のある上、心臓に毛が生えたみたいな妹は平気そうな顔をしていた。
やってきたお絹さんの目は赤く、すこしぽったりとしていて、見ていて心苦しかった。笑っていたが、目尻のシワは弱々しく今にもぐちゃぐちゃになりそうな感じがした。私はお絹さんと目が合うと、さっと逸らしてしまった。申し訳なくて、気まずかったものだから、幼い私は目をそらしてしまったのだ。
妹はずかずか上がり込んで、彼女が座って泣いていた場所に座り込んで「お絹さん、私みちゃったの」なんて言った。その言い方は、まるで幽霊でも見ちゃったというような、ご近所の噂好きのオバさんが言うようなそんな感じだった。私はどうにも申し訳なくて縮こまるだけだった。
彼女はそんな私を気にかけることもなく「泣いてらしたの見たわよ。どうなすったのよ、いったいぜんたい。私、お話きこうと思ったのよ。お母さん言ってらしたわ。お友達が泣いてたらお話を聞いてあげなさいって親切にしなくちゃダメよって」
「ま、優しいのねおみつちゃんは。でもね、なんでもないのよ。なんでも……」
「嘘おっしゃいな。なんでもなくて泣くもんですか」
「本当にそうなのよ。ちょっと疲れてしまってただけなの。あのね、大人ってね、疲れるとなぜだか涙が出る生き物なの。お母さんに聞いてごらんなさい」
妹は訝しそうに見ながら「そんなら、お母さんに聞くわ」と答えた。
しかしながら、私の妹はどうにも気になったものは追求しなくては気が済まない性分らしく「じゃ、どうして疲れてらしたの?お仕事なの?」と聞いた。
お絹さんはわずかに困った顔をして「え、いえ、そんなんじゃないのよ。私、刺繍は好きですもの。本当よ」
「じゃ、どうしてお疲れになってたの?」
「生活しているだけで疲れることもあるのよ」
「まあ、本当に? 私、ちっとも疲れたことないわ。ねえ、お兄ちゃん」
それに私はとても動揺しながらも、あの当時はそうであったため、頷いた。それに妹はとても満足したように頷いて「生活してるだけで疲れるなんておかしいわ。そんなの変だわ」とお絹さんに言った。
「それはあなたたちが若いからよ」
「お絹さんも若いわ。そうオバ様方言ってるわ」
「私より、あなたたちのほうがうんと若いでしょう? そういうことなのよ」
妹はその返事に不満らしく、ぷくっと鼻の穴を膨らませて、俄然聞き出そうという意思が強くなったらしいのが見て取れた。私はそれにますます身体を縮こめさせた。申し訳なくて、障子に肩を寄せてその成り行きを見るほかなかった。こうなると、妹はとことん意固地になってしまうので、私は止められなかったのだ。
「ね、お絹さん。本当のことおっしゃってよ。そうじゃないと、いやよ、私。本当のことおっしゃって、ねえってば」
「なんでもないんだったら」
「本当のことおっしゃってくれなきゃ嫌! 私、ここで泣いてやるから、本当よ!」と妹は脅しにかかった。これには私も焦って「こら、おみつ!」と叱るしかなかった。そうして叱ったことが火種になったのか、妹は顔をカッと仁王像のように真っ赤にさせて、うわあっと泣き叫んだ。彼女の真っ赤な口がぱっかり開かれ、喉の奥からあふれんばかりの声が響いた。セミの声も負けるくらいであった。
お絹さんはもうしようがないというような顔で「わかったわ、言うから泣き止みなさいな」と少し黄ばんだハンカチーフを渡した。妹はまだいくらかぐずりながらも、自分の要求が通ったのでニッコリとして「そんじゃ、本当のことおっしゃってね。本当のことじゃないと、私、また泣くから」と言った。私はおおいに恥ずかしかった。
お絹さんは白いシャツをぐいっとあげて、少し汗を拭った。細っこく日焼けした首筋に汗がたらたら流れている。まとめた後れ毛がひっついてちらちらと光っていた。
「私ね、信じてるのよ」
向こうは緑が生い茂り、真っ青な空が気持ち良さげにまどろんでいて、雲がぽっかりと寝転んでいた。
「きっとね、あの人、生きてらっしゃるって」
ああ、と私は畳の目を見つめた。幼い私でもよくわかる。聞いてはいけないことだったのだ。妹もそう思ったようで、どうにも申し訳なさそうに顔に影を作っていた。お絹さんは少し微笑み「いいのよ、気にしないで」と言った。痛ましい微笑みだった。空がやはり残酷なくらいに美しく澄み渡っていて、ますますお絹さんの微笑みが痛々しく感じられた。
「でも、もうダメね。もうダメなのよね。私、昨日、怒られたわ。お写真みるのも今日限りなの。そう思うとなんだかとても辛くって。あの人、生きてらっしゃるわ。そうに違いないのに、ダメなのよ。どうにもダメ。私、結婚なんかしたくないわ。お父さんだってお一人になってしまうのよ。私、どうにも嫌なのよ。でもねえ、でもねえ、ダメなのよ……」とポロリと流す。
そうして結局また肩を震わせて、ぽろぽろこぼしながら「あのね、この年でもいいからって言う方がいらっしゃるんですって。お写真見たのよ。ひどいの、私、とてもじゃないけど、できないわ」
妹はとても同情して「まあ、どんな方となさるの。お写真おありになるんでしょう? みせてください」と膝に手を置いて頼んだ。彼女は近くのタンスからそれを取り出して見せてみた。
「まあ! なあに、このおじさんは! こんなのダメよ、てんでダメだわ!」
と、妹は叫んだ。
写真の中の人物はどう見たって四十くらいのおじさんで、あまりにもひどいものだった。鼻はべったりと横に大きくて、目が垂れてたぬきのような助平そうな顔である。このたぬきにお絹さんがお嫁に行くのかと思うととても嫌なものだった。私がその頃思い描いていたのは、もっと溌剌とした若者で一緒にいてお絹さんがよく笑えるような、そういう人物だった。
あの頃の私は大変バカで無鉄砲でどうしようもなくお子様であった。
私は義憤のようなものにかられて、思わず「そんならぼくがお絹さんのお婿さん探してやる!」と叫んだ。
お絹さんは驚いた顔でこちらを見て「いいのよ、いいの! やめてちょうだい」とか細く言った。本当なら力強くやめてほしいと言いたかっただろうが、泣いていて、疲れていた彼女にそのような元気はなかった。
妹は私のそれに大変喜んで同意し「お兄ちゃん、私もやるわ! 断然やるわよ。絶対にお絹さんにお似合いの人を探さなくちゃだわ」と立ち上がった。
お絹さんは私たちの服を掴んで「やめてちょうだいな、そんなこと」と言った。
「いいえ、お絹さん。私たち、やんなきゃだわ。私、そんなおじさんにお絹さんをあげたくないわ!」
「そうとも、ぼくたち、きっといい人見つけてくるよ。いろんなとこ行って探すよ」
「でも、でも……」
「そんなおじさん嫌じゃないの?」
「いやよ、そりゃ。でもね、お父さんがそうおっしゃるのよ」
「ダメだよ。そんならぼくが達治さんに言うよ。お絹さんはこんなおじさんにあげちゃダメだって」
「ええ、ええ、私も言うわ。絶対に言うわ」
「でもね、お仕事のでね、どうしてもだって言うのよ」
「まあ、ひどい!お仕事だからって、こんなのひどすぎるわ。私、断然達治おじさまに抗議するわ」
「ぼくも抗議するよ」
お絹さんはなにか言おうと口をわずかに開いたが、結局、きゅっと引き結んで「そんじゃ、お願いするわ。きっといい人見つけてきてちょうだいね」とだけ言った。
私たちはそれにおおいに喜んだ。なにせ、その時は必ず見つかると思っていたからだ。私たちはお絹さんからお見合い写真を一枚だけもらって、外に勇んで出て行った。あの時、お絹さんの顔はどこかしら諦めとどこか他人めいた表情をして、私たちを見送ったのだった。

私たちは幼いながらに、都心の方まで出て行った。サラリーマンたちはせかせかと足をまっすぐに動かして、カバンを武器のように振り回していた。彼らはどうにも傲慢そうに見えて私たちは顔を見合わせ「サラリーマンはダメ」と言い合った。お絹さんを大切にしてくれる人じゃないとどうにも嫌だったのだ。
私たちは、お菓子屋さんの裏で休んでいる青年を見つけた。ぷかぷかタバコを吸っていて、少し柄が悪そうに思えたが、目のまん丸い愛嬌のある青年だった。私たちはぱっと彼の元に駆け出した。
彼はこちらを不思議そうにみて「どうしたんだい」と聞いた。
妹はもじもじしながら「あのねえ」と間延びした言葉を発した。それに私はイライラッとして、お見合い写真を突きつけるようにして見せ「この人ね、お絹さんって言うの。四十のおじさんと結婚させられそうなの。それで、ぼくらお婿さんさがしてるの」と言った。青年は面白そうに私たちを見て「へえ、そうなの。それで僕をって?」と首を傾げた。彼は愉快そうに頷く私たちを見つめてタバコを吸っていた。
「綺麗な人だね。でも、狐みたい」
「笑うととってもかわいいのよ。目尻にね、シワが溜まってかわいいの。本当よ」
「へえ、何歳」
「二十八だよ。でもね、お父さん言ってたよ、夫婦は十くらい年が離れてるといいんだって!」
「二十八かあ」
「あのね、とってもお裁縫がお上手なのよ。本当に、本当にお上手なの。刺繍がとってもすごいのよ。お着物に縫うの。それね、お仕事なの。お金をいくらかもらってらしてるのよ」
「職業婦人はなあ」
そう彼は渋り続けた。それにしびれを切らした妹は「まあ、お兄さん! きっぱりしてちょうだい。あなた、どっちになさるの。お見合いなさるの、なされないの」
「いやあ」と青年は頭を掻いて「やめとくよ」と言った。妹はそれに思わず膝を蹴っ飛ばして「なによ、このスケコマシ!」と覚えたてなのだろう罵倒を言って走り去った。私も慌てて、妹を追いかけて「あんなことするなよ! もしも怖い人だったらどうするんだ」と怒った。妹は顔を真っ赤にして「ひどいわ!」とだけ言った。泣きそうな顔をするものだから、これ以上なにも言われず、手を繋いで道を歩いた。
次に聞いたのは呉服屋の番頭をしている人だった。刺繍がうまいから呉服のとこならいいんじゃないかと思ったのだ。彼もやはり面白そうに私たちの話を聞いた。
刺繍がうまいのだという話を散々にした。どれだけ上手なのかというのを一生懸命にし、番頭もうんうん頷いた。だが、結局はお婿さんになってはくれなさそうだった。
「刺繍がうまいのはいいけれどね、それだとうちの職工になってもらった方がいいね。ごめんね、お嬢ちゃん、坊や。私にゃもったいないよ。他の人を当たんなさい」
「……どうしても?」
「ああ、ごめんなさいね」
「そう、それじゃあ、お邪魔しました」と私たちは呉服屋を出た。
それから、いろんな道を通って、十人以上に聞きまくった。だけども、誰一人として頷く人はいなかった。私たちは悔しくて悔しくて泣きながら家に帰った。真っ暗い夜道でますます涙が出たのをよく覚えている。どうにもお絹さんがこのまま本当にあんなおじさんのところに行ってしまって、不幸になると思えて仕方がなかったのだ。それに、誰にも彼にもごめんなさいねと断られて、腹立たしかった。
お絹さんは本当に優しくていいお姉さんだったのだ。遊んでくれるし、刺繍を教えてくれるし、宿題だって一緒にやってくれる。とてもとてもいい人なのだ。なのにどうして誰も、よし会うだけ会ってみようかな、と言わないのだろうか。写真がいけないのかしら、と私はまじまじと写真を見つめたが、白黒の着物を着てきちんと座っている彼女は悪いものでは決してなかった。少し気が強そうに見えるけれど、そんなもの気にならないものだった。
妹は悔しそうに太ももを叩いて「世の中の男の人って、てんでダメよ」と吠えた。
私も一緒になって「そうだよ、今時の男の人ってダメなんだよ。見る目がないんだよ」と吠えた。
「お兄ちゃんはそんな風になっちゃダメよ。立派な人になってちょうだいね。約束よ」
「ああ、約束だ。絶対、僕はそんな風にならないぞ。見る目のある男になるぞ」
「ええ、なってちょうだいね」
ご飯の匂いが漂ってきて私たちは転がり込むように家に入った。歩き回ってどうにもこうにも疲れていたのだろう。それでお腹がペコペコだった。泣きはらした目で帰ってきた私たちを見て、母はぎょっとした顔をして、割烹着の裾を持ち上げたまま、少しの間固まっていた。
泣いていた理由を話すと、母は驚いて、それから、少し笑った後「それはかわいそうだわ。あんまりだわ」と言った。
私たちは母ならなんとかしてくれるだろうと思い、お絹さんのお婿さん探しを頼み込んだ。頼り甲斐のある少し太り気味の母は胸を叩いて「任せなさいな。きっといい人見つけてあげるから」と声を張った。
私たち兄妹はそれに安心して、やっと食卓につくことができたのだった。

一週間後、母が探し出した青年はメガネをかけたピリピリしてそうな人だった。母は職場が云々という話をしていたが、私たちにはどうも不満であった。私たちの望む人は、お絹さんを大事にして笑わせてくれる人だ。こんなピリピリしてそうな人はお絹さんにはダメだと思ったのだ。
お見合いの話はトントンと進んだ。
最初の四十の人は、さすがに達治さんもあれだと言うので取り下げたらしい。そうして、その矢先に母がもってきたのが、ちょうど良さそうな年齢の、さらに言えばいいところに勤めている人だったので達治さんも喜んでいた。
お絹さんは一人、気弱そうな力ない表情をしていた。薄い肩がさらに薄く丸まって見えた。
私たちはお絹さんの味方であると思っていた。実際、そうだったはずである。
「お絹さん、嫌だったら私たちにおっしゃってね。私、お母さんに言ってあげるから。もっと、お絹さんを幸せにしてくださりそうな方を探すわ。本当よ」
「ぼくら、お絹さんの味方だからね。いやだったら、言ってください。絶対に助けるからね、ね!」
「ええ、ええ、ありがとう。でも、私は大丈夫よ」
「本当?」
「ええ、本当」
「嘘はダメよ」
「ええ、わかってるわ。嘘はつきません。さ、指切りしましょう」
「ええ、するわ。さ、お兄ちゃんも」と繋がり会った小指を差し出してくる。私もそれに加わって、一緒に指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った! とやった。細い指たちが一斉にバラバラと離れ、わずかさみしいような心地がした。
お絹さんは細い指を見つめて「ね、お約束してちょうだいな」とぼそりと言った。
「もしも、私が結婚できなくたって、お友達でいてくれるって」
「まあ!」
モヒトツ「まあ!」と妹は叫んだ。
「そんなのお約束にはならないわよ! そんなのなさらなくたっていいのよ。だって、そんなのね、するようなことじゃないですもの。ねえ、お兄ちゃん」
「そうだよ。することないことだよ」
お絹さんは髪を耳にかけ「そう……」と微笑んだ。
お見合いの後、お絹さんは結局、断ってしまった。向こうも向こうで断ってきたそうだから、平和なもんではあった。どことなくほうっとしたのもつかの間で、妹のようにどこか強引なところがある母は、その一つの失敗なんかで立ち止まるわけがなかった。また次々に縁談を持ち込んできたのだ。どこをどうやって探し出すのか、私たちには謎であったが、素晴らしい能力であったであろう。それを見込んで他から依頼が来るくらいであった。母は立派な仲人になっていた。
お絹さんはどんな人がやってきても「いえ、でも……」だの「そうですか、でも、私……」と中々に返事を出さず、あちらがやる気満々だったとしても、どうにも彼女はその気にならなかった。私たちは見ていてもどかしかった。時には彼女をしっかりと幸せにしてやれそうな、大事にしてくれそうな人が来ても、結局お断りをしていた。
母はそれでも「結婚なんて一大事だもの。そう簡単に決まるものですか」とますます腕をまくってみせたのだった。

ある晩のことだった。
どうにもこうにも寝られなかった。ホウホウだのガサゴソ、リーリー鳴く音がしきりに耳にうるさく入って来るような晩であった。側の妹はすでに眠りにつき、両親もぐっすりと寝ていた。その時分、何時だったかは覚えていないが、きっと遅い晩であっただろう。
窓からうすぼんやり月が見え、部屋を青く浮かび上がらせていた。
私はどうにも寝られないので表へ出た。外は少しだけ肌寒かったが、夏であったので風邪をひくと言うほどでもなかった。
近くの河川敷まで歩こうかと思った。月はまん丸で満月だったから、十分に明るい夜だった。サクサク草を踏みしめて、私はえっちらおっちら歩いた。不思議と眠くはなく、穏やかで落ち着いた心持ちだった。きっと幽霊にあったとて驚かなかっただろうと言うくらいだ。
河川敷を少し歩くと橋がある。私たち兄妹は、よくそこから石を水面に落とす遊びをしていた。ぽっちゃん、ぽっちゃんと波紋が広がっていくのが面白かったのだ。時折、大きくなった今もやってみるが、あの時のように、熱中できるほどには面白いと思えない。だが、あの頃は面白かったのだ。
なので、私は石を拾い集めて橋に向かった。橋の上まで歩いていくと、よく見知った顔が橋の下を眺めている。もちろんそれはお絹さんだ。寝巻きの浴衣に髪をばらした姿で橋の手すりを持って川を見つめていたのだ。影のかかった横顔はとても静かで何処となく沈痛であった。暗鬱とした夜の中でぼうっと突っ立っている。
思わず、石を放り投げて、お絹さんのところまでかけていった。
お絹さんはこちらを見て、目をまん丸くさせた。私はお絹さんの腰に抱きつき「ダメだよ!」と叫んだ。
「ダメ、ダメ、ダメ」と頭を振って、ぎゅうぎゅう抱きついた。
「お絹さん、しんじゃあ嫌だ。僕泣くよ。本当に泣くよ。恨むよ」
「まあ、なおちゃん……」とあの硬い手が肩に優しくかかる。それがさらに恐ろしいような恋しいようなで、お腹に頭を押し付けた。
「大丈夫よ。私、死なないわよ。安心なさいな」
「でも、でも」
「大丈夫よ。本当よ。私、ただぼうっと考えてただけよ」
「なにを考えてたの」
「なにって、ただ、あの人、生きてらっしゃるのかしらって」
「ねえ、あの人ってどんな人なの」
「ええ、少しね。学校でね知り合ったのよ。とっても良い方だったわ。あのね、将来は学校の先生になりたいって方だったの。夏目漱石がお好きで色んな話をしてくださったのよ。それでね、こんな満月の日にはどうにも思い出されて仕方がないの」
「そんなにいい方だったんですか」
「ちょっと頼りないけど」
「お絹さん、その人、好きなの」
彼女は黙りこくってしまったが、それで十分にわかった。私は彼女から離れて「きっと、生きてらっしゃるよ。ぼく、毎晩お祈りするね。お絹さんが会えるように、生きてますようにって」と励ますように手をしっかりと握りしめた。
「どうもありがとう」
「妹にもするように言う。きっと、きっと会えるよ」
お絹さんはただ微笑むばかりだったけれど、あの弱々しさは薄れていた。
「なおちゃん、もう帰りましょう。遅いもの。寝る時間だわ」
「うん、帰る。僕、今日はなんだか寝れないような気がしたけれど、今はどうにも眠いや」
「そう、それはよかったわ」
「お絹さんは寝れる?」
「ええ、ねれるわ」
お絹さんは僕を家まで送ってくれた。暗く茶色い玄関先で後光のように月を背中にやりながら「おやすみなさいね、なおちゃん。きっと、良い夢が見れるわ」と言った。
なんだか、それがさみしい気がして、入った家をまた出て「お絹さんがどうにも誰にももらわれないってなら、僕、きっとお絹さんをお嫁さんにするよ」と言った。あの時はどうにもお絹さんに元気を出して欲しくて必死だったのだ。とても今思えば恥ずかしいことこの上ないが、あの時は必死だったのだ。あの目尻の愛らしいお絹さんに戻って欲しかった。
彼女は少しおかしそうに笑った後「ええ、それじゃあ、期待をして待ってるわ。その頃には、私、もうおばさんでしょうけど」と頭をひと撫でして帰ってしまった。

さて、お絹さんのお見合い話は全部ダメになり、あの母も諦めた。達治さんの方はどうにも諦めがつかなかったようだが、ある日を境にピタッとそれがやんだ。どうしてだかはわからないが、きっとお絹さんがなにかを言ったのだろうというのはわかった。
私たちはなにを言ったかは聞かなかったが、すっきりした顔をしているお絹さんを見て嬉しい心地がした。あのよく遊んでくれたお姉さんが帰って来て、どうにもこうにも嬉しかったのだ。
妹なんかは「お絹さんは結婚なんかしなくていいのよ! 私、それもとっても素敵だと思うわ。私ね、きっとね、お絹さんみたいな人になるわ」とさえ言っていた。
それにお絹さんはあの笑顔で「嫌だわ、おみつちゃんは結婚なさいな。私はね、いいの。あの人が死んでるか生きてるかわかんないけど、いいの。だって、もやもやしたままするだなんてきっと身体に悪いもの。病気になっちゃうわ」と胸を反らせてちくちく縫いながら言っていた。
彼女は結婚しない代わりに仕事に精を出した。一生懸命に働き、縫い続けた。頼んだ奥様方の井戸端でそのうまさが伝わり、大きなお仕事だって来るほどになった。どこかの百貨店にお絹さんの刺繍した着物や帯が出ると大変に誇らしく感じた。
結局、お絹さんはその人と会うことはなく、未婚のままであった。だが、彼女の笑顔は変わることなく愛らしいもので、おばあさんになってからは、ますます目尻にシワがたまり小鳥でもさえずっているような心地にさせられるのであった。
彼女の生涯は少し前に閉じたが、その一生はきっと悪いもんなどではなかっただろう。
私たちは死ぬまでお絹さんが大好きであろうし、今でも、天国で彼女がその人と会えますように、今度こそ幸せになりますようにと祈るのである。
特に満月の晩なんかは強くそう思うのである。
作者にコメント

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