お題:僕の宇宙 必須要素:純文学 制限時間:1時間 読者:41 人 文字数:1437字 評価:2人

シューゲイズの妄言は犬も食わない
 別に信じてくれなくて構わないが、私はかつて、私だけの宇宙を持っていた。まだほんの5つか6つの頃だ。
 それは限定的な方法でのみ観測できた。つまり、夜空を見上げるのではなく、幼い私の宝物だった小さな筒を覗き込むことでのみ観測できた。何の変哲もないそれは私が覗き込むことで天体望遠鏡となり、見たこともない星空を私に見せてくれた。現実ではありえない数の星が瞬くその光景に見惚れることが、父と母が交わす罵声から身を守るための手段だった、ように憶えている。

「万華鏡かなにかだったんだろう、どうせ」

 革靴を履いた足をふてぶてしく差し出す若い男が、呆れながらそう口にした。

「第一、見たこともない景色を、どうして宇宙だと言い切れるんだ」
「さあ。ただ、不思議な確信があるんです。あれは間違いなく宇宙だった」

 ぼろ雑巾でこすり、息を吐きかけてやるたび、男の靴は少しずつ輝きを取り戻していく。その過程は掛け値なしに素敵で、自分がいくらで雇われているかであるとか、特別綺麗にしたからといってチップをはずんでくれるほどこの男は気前がいいわけではないとか、そういうことはみんなどうでもよくなる。

「大人になると、夏目漱石が読みたくなるんだよ。それも、教科書で」
「何ですか?」
「夏目漱石だよ。『こころ』とか載ってただろ。あ、お前……」
「これでも学校には通わせてもらいましたよ」

 男はひとつ咳払いをして、再び口を開いた。

「つまりだな、過去というやつはどうにも輝かしくて、俺たちはその魅力から逃れられないということだ」
「私の宇宙は、私の妄想だと?」
「妄想というか、美化だよ。お前はお前にしか見えない宇宙を持っていた。お前はお前だけの世界を持っていた。お前は特別だった。そういうことにしておけば、確かに救われるだろうからな」
「星明かりが反射するくらいこの靴を綺麗にしたら、そういういじわるを言わないようになってくれますか?」
「あいにく、どれだけ磨こうがネオンの明かりしか反射しないだろうよ、クレイ」
「それは、あなたの魂が汚れているということですか?」
「この街が、だよ」

 夕飯代の足しにしかならない程度の金を置いて、男は行ってしまった。いつの間にか夕暮れは終わり、辺りは暴力的な街明かりでむしろ輝かしさを増していた。頭上に夜空が広がっているかと思うと、顔を上げるのが恐ろしい。
 あの筒をどこにやってしまったか、私は忘れてしまった。多分中学生になる頃だったか、そんなものに縋ることを恥だと考えるようになった私は、できるだけ私だけの宇宙を遠ざけるようになった。10年後の自分が、またそれに縋らなければならなくなるとは夢にも思わずに。

 そのあと、3人の客を捌く頃には、街明かりさえ鳴りを潜めていた。商売道具を片付けながら、私は自分のスニーカーに目を落とした。靴磨きの靴がぼろぼろというのは、客を遠ざける原因になり得るだろうか。だとしても、どうせ新調する金もない。
 あの若い男のことを考える。あの男が明日、再び私のもとを訪れて、花束でも差し出しながら「君こそ僕の宇宙だ」とうすら寒いセリフを私に吐き出すのを想像する。少し愉快だ。

 私はかつて、私だけの宇宙を持っていた。信じてくれなくて構わない。嘲笑ってくれて構わない。しがない靴磨きの魂を、枯れ井戸の底のような袋小路に入り込んだ魂を癒しうるのは、あり得なくて、陳腐で、嫌みなほど輝かしいあれこれだけなのだ。
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