お題:愛と死の沈黙 制限時間:1時間 読者:40 人 文字数:1215字
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愛の幻
 愛が死んだ。比喩ではない。今、私の胸の中で確かに、愛が死んだのだ。雨の日に、浮かれて道に飛び出した蛙が車のタイヤの下敷きになるように。いとも簡単に、死んだのだ。
「そう、ね」
 声が裏返りそうになるのを必死で隠しながら相槌を打つ。大丈夫、きっと大丈夫だ。机の上で組んだ手が震える。ばれるな。隠し通せ。
「ああ。結良のことが嫌いってわけじゃねえけどさ、ほら、なんか違うじゃん」
 私はそうは思わないよ。あんたと始まるって、考えてた。それなのに。たった一言で、さっきまで確かにこの胸の中にあったはずの熱が、驚くほどに冷めてゆく。恋愛は一人じゃできないって、誰かが言っていた。愛は二人ではぐくむものだって、誰かが言っていた。私たちの間にあったのは、愛じゃない。もっと、形のない、透明であやふやなもの。名前もない。吹けば飛ぶようなもの。
「あー、ほんと、出会いがねぇなぁー」
 真っ白なマグカップの中に入ったコーヒーを飲みながら、彰が言った。一口飲んで、「思ったより苦い」と悪態をこぼす。その薄くて形のいい唇に見惚れていた。私は一体、この男のどこに惹かれていたのだろうか。形のいい後頭部。痛みを知らない、つややかな黒髪。女の私がうらやむほどのパッチリ二重。私よりこぶし一つ分高い背。薄すぎない胸板。節張った手。バランスよく筋肉のついた脚。少し甲の高い足。
「結良もそう思わねえ?」
「そうね」
 今日の昼、駅前で彰を見つけた時は輝いていたはずのすべてが、今はくすんで見える。愛が死んだから。正確には、私が押し殺したから。彰にばれる前にと、脈がないとわかった瞬間に、殺した。私は、飛び出した雨蛙じゃない。ひき殺した、車のほうなのだ。
「聞いてる?」
「うん」
 コーヒーカップを置く、ガチャリという音が耳に突き刺さる。そういうところ、ほんと乱雑なんだから。気になったけど、不思議とうんざりはしなかった。そんな小さなことよりも、死んだ愛の行方が気になるのだ、私は。彰の、くりくりと丸い双眸が私を見つめる。人懐っこいところだろうか。放っておけないところか。
「なあ、本当に大丈夫か」
 彰の顔が、ぐいと近づく。そういうところだよ、あんたの。こういうところが、私の心にするりと入ってきて、隙間を埋めていく。安心してたんだ、ずっと、この温度に。彰が、私の心の隙間を埋めてくれた、ぬくもりに。
「結良」
「ああ、うん、大丈夫」
 もう決着がついたから。
「課題のやりすぎで、疲れてるのかな」
 ぐー、と体を伸ばして、ごまかした。気が付かれないように、静かに、気持ちに蓋をした。
 きっと、私たちの間に会った感情は、依存だ。愛のない。癒着に近い、依存。開いた隙間を埋めるように、ぴったりとくっついていただけなんだ。
 ねえ、そうでしょう? と愛に語り掛けても、何も返ってこなかった。投げかけた言葉は、愛がいたはずの心の隙間に落ちて、霧のように消えた。
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