お題:難しい社会 制限時間:15分 読者:49 人 文字数:9709字

Sunset of heaven
僕は自動車だった。僕がいる場所は薄暗く広大な広さをもつ倉庫の中だった。四方をぐるりと見渡してみると、僕1人を保管する(不思議なことに破棄されるためにそこにいるようではないと確信があった)には些か広すぎると感じていた。まるで何かの手違いで商品搬入をされる前のIKEAの倉庫に運びこまれ、そのまま忘れされた埃が積み重なっていくヴィンテージカーようだった。床は所々ひび割れが走った灰色のコンクリートで、四方を取り囲むのっぺりとした壁は薄暗いせいで白なのか鼠色なのかチャコールグレイなのか判断できなかった。もしかして白と鼠色とチャコールグレイで塗装されているのかも知れない。なぜここにいるのかを考えてみたが、思考を巡らすことが長く続けることが出来ずにいた。1から10まで数えたいのに、1から2にたどり着くことが難しく、2から3に行き着く頃には数を数える目的を忘れてしまうアルツハイマー患者を思い出した。
ぼんやりと自分の姿を見てみると、かなり古いタイプの四輪車でその車体はヴォルクス・ワーゲンのビートルを思い出させた。体を覆う塗装はその大部分が剥がれ落ち、剥がれた部分に宿命的にこびりついた錆びは重度の皮膚病を抱えた病人の背中のそれとそっくりだった。エンジン、フロントライト、シートをはじめとするすべての部品(あの凛々しく美しいかったボンネットでさえ!)はゴソリと綺麗にぬきとられていた。僕にのこされた部分はこのほとんど骨組みだけのボディとタイヤと古ぼけたハンドルだけだった。
「ここはどこだ」
声ならぬ声を発すると、どこからともなく僕の声が雨の降り始めのように弱々しく反響した。
もう一度頭のなかで思考を巡らすことを試みた。無駄だとわかっていても自分で出来ることはこれしかなかった。時間の感覚はどこからへ消え去ってしまっていた。夜なので薄暗いように見えたが一向に倉庫内の明るさは変わらないことが不気味だった。

[上海]

何かが頭を過った。僕は見間違えではない言葉の端を脳内で辛うじて繋ぎとめた。自分の頭のなかで現れた文字は始めなんの意味を持つのかはわからなかった。ただ少しづつその2つの文字が意味することをわずかに捉えはじめた。だが言葉の意味をぼんやりと理解したからといってそれが僕を助けることはなかった。言葉は言葉であるだけでそれは救いではなかった。
突然カチリと何かのスイッチが入る音が聞こえた。スイッチが入ると同時にそれを知らせるサイレンが鳴った。工場のサイレン音にしては古い黒電話のようなジリジリとしたつんざく音だった。どこからともなくチェーンが軋み、それが擦れる音が聞こえてきた。つんざくようなサイレン音と金属の擦れる音が不協和音となり、僕はそれをただただ耐えるしかできなかった。
しばらくすると、それらの音が真上からなっている事に気が付いた。恐る恐る見上げてみると、約直径3mの丸い物体がソロソロと僕に近づいてくることがわかった。その丸い物体は白い部分さえ黒く塗られたオセロの石のようだった。
両面黒石が僕の背中に到着すると同時に、金属の擦れる音がピタリと止まった。この石に押し潰されるのではと思ったが、今のままではどうすることも出来ないとわかっていたので僕はひたすら待ち続けた。突然背中に熱した鉄を擦り付けられるような感覚に襲われた。次の瞬間、僕は宙に浮き始めた。
僕の体はゆっくりとだが確実に、天井に引き揚げられていった。錆び付いたチェーンと不快なサイレン音は後頭部でどんどんと大きくなっていた。下を覗いてみると今まで僕がいた床が見えた。下に保管されていたときと同じように、コンクリートの床は僕に何も語りかけることはなかった。ぼんやりと床を眺めているといつの間にか天井に到着していた。チェーンの発していた音は止まったが、あのジリジリとしたサイレン音はまだ耳元でけたたましく鳴り続けていた。徐々に立体的になっていく音を聞きながら覚醒していくぼくは元いた居場所に別れを告げた。灰色の殺風景な床は物言わぬ石像のように沈黙を守っていた。


目を覚ましたとき、そこはどこで今は何時なのか分からなかった。前の日に飲んだウイスキーがまだ身体に残っており、背中に溜まった熱が汗でぐちゃりとシャツを濡らしていた。
僕の頭の横に置かれた携帯電話の液晶がぼんやりと10桁の数字を表示し続けた。けたたましいサイレン音はまさにその着信音と一致した。僕はその電話番号に心当たりがなかった。出る必要性が分からなかったが、結局は出ることにした。画面を開くと現在時刻は2:41と分かり、僕は深いため息をついた。
「もしもし」
「...夜分遅く申し訳ございません。私警備会社のワタナベと申します。先ほどそちらの店舗様で異常発生の知らせを受けお電話しました」
僕はまだ覚めきっていない頭を動かし、相手の話す内容を聞いた。電話をしてきた男の声は昔の知り合いのとてもよく似ていたがだれだかは思い出せなかった。
「警備員が知らせを受けた店舗に急行したのですが、シャッター施錠が解けない状況でございます。シャッターの鍵を取り替えたなどのなにか心当たりはございますでしょうか」
そこのお店のことは知っていることには知っていた。通常のお店にはシャッターに必要な鍵は1つだ。だがそこのお店に限っては複合施設の中に組み込まれており、施設管理会社の警備員がもつ鍵が1本必要だった。普段は店舗の営業時間の前と後に施設の巡回を行うの警備員がその鍵を開け締めを行うので鍵は1つで事足りるのだが、この状況はそうではなかった。僕はそのことを説明すると同時にもうひとつ警備会社の人間に言わなければいけないことがあった。
「僕はもうその会社を退社していて、今現在の詳しいシャッターの事情を知らないんです。申し訳ないのですが」
「...左様でございますか」
少し電話口の向こう側で考えるような間があり、相手は礼を言ってから電話を切った。電話が切れたあとの部屋のなかは先ほどの何も無い倉庫と同じように不気味なほど静かだった。
僕は普段は寝付きが良く睡眠が深いタイプだ。だが、アルコールが入ると悪い方向にそれが変化してしまう。寝入りが極端に悪くなり、少しの物音で睡眠が妨害されるのだ。特に起こされた時間がたちの悪さを語っていた。夜中の3時という時間はバーに足を運び酒を飲むには遅すぎるし、起きて行動するには早すぎる。
やれやれと思いながらドアの鍵をあけ、ベランダに出てタバコを吸うことにした。火をつけたタバコから出る紫煙は不思議なほどまっすぐと空へ伸びていき、スラスラと空気中へ消え去っていった。日本の夏特有の風がなく、湿度が高く不快な気候だった。タバコを1本吸いきるまでに腕にじっとりと汗を纏うことになった。
昨日の夜のことをぼんやりと思い出していた。


僕はあまり人混みが好きではないので、滅多に行かない六本木のような駅で待ち合わせることはなかなか辟易した。べつにどこでも良いと言った手前、彼女の待ち合わせに指定した場所を変更してもらうこともわるいと思った。ただ一応僕がひとの多い場所は苦手だと遠回しに伝えた。僕が言わんとしていることを察した彼女は笑いながら自信ありげに言った。
「たまには自分をいつもと違う環境に飛び込むのもいいですよ」
まあ私もいますしなんとかなりますよと言いつつ、うんうんと頷いていた。そういうもんかと思いつつ、僕も頷くことにした。電話越しに約束の日時を確認し、我々は電話を切った。

彼女と会うのはとても久しぶりだった。僕が大学生の頃にアルバイトをしていたファーストフードのお店で後輩として入ってきたのがその子で、当時僕は大学生で彼女は高校生だった。たまたま連絡するきっかけがあり、そこから話がはずみ「今度食事でもいこう」と言う流れになった。実際2人で顔を会わすのは10年振りだった。

待ち合わせの場所は3番出口に一番近い日比谷線改札のだった。構内に等間隔に並べられた青い柱に寄りかかりながら目の前を行き交うひとびとをぼんやりと眺めていた。目の前にはこざっぱりとした格好の大学生2人組の男女と3人組大きなキャリーケースをゴロゴロと引きずったアジア人旅行者とはす向かいの青い柱に気だるそうに眉間に皺を寄せながら寄りかかるやけにスカートの短い女子学生が1人見えた。大学生2人組と3人組のアジア人はなにやらあーでーもないこうでもないと大きな声で話合っていたが、これからいく先が決まったのか大江戸線の方向へ順繰りに吸い込まれていった。しばらく女子学生を観察する眺めていたが、なにか自分が悪いことをしているような気がしてならなかった。僕はその観察を止め、ポケットにしまっていた文庫本を取りだし、途中だった物語を再開し始めた。

彼女は待ち合わせ時間丁度に来た。長い間会わなかったが、僕は彼女が彼女であるということはすぐにわかった。彼女もそうだったようで僕に近づいてきた。
「久しぶりです。お互い変わらないですね」
「久しぶり。お互い変わらないね」
彼女は鼠色のピタリとしたTシャツにスキニーのブルージーンズに足元は真っ白なPatrickのテニススニーカーを合わせていた。肩には高級そうな革のワンショルダーバッグをかけてたせいでTシャツの右肩部分はうっすらと汗が滲んでいた。
挨拶もそこそこにお店に向かい始めていた。出口に向かう為に階段を上がっていく。横に並んだ彼女の短く切り揃えられた髪からのぞく小振りな耳には骨董品を不釣り合いな形に砕いたような白と藍色のイヤリングが時折左右に揺れた。

彼女が入ったお店はスペイン・バルだった。出口を出て首都高3号沿いに10分ほど歩き、一本裏路地に入るとすぐに左手にあった。本場スペインの味を堪能できるお店だと評判らしく、日が落ちる前でも20人ほど入れそうな店内はすでに半分ほど埋まっていた。ドアをくぐると外の空気とはまた違う、狭い空間に集められたときに発せられる人々の熱気と美味しいそうな料理の香りが僕らを出迎えた。
「この中から選んで下さい。私が注文を伝えるので」
「君と同じワインで良いよ」
ベラに書かれたメニューに目を通してもどこの品種がどんな味なのか分からなかったので、彼女に注文は任せることにした。彼女は店員を呼び、ワインと夏野菜のピクルスと小柱のアヒージョを注文した。始めに運ばれてきた良く冷えた白ワインで我々は乾杯をした。
最初にお互いの仕事の話をした。彼女は鉄道会社の広報の仕事をしていると言っていた。最近は徐々に女性社員が増えてきてはいるがまだ少なく、男の職場というイメージは払拭出来ていないと言っていた。僕は話を聞きながらも、車掌の格好をしながら先頭車両で発車確認を行うの彼女の姿を想像した。不思議とパソコンを目の前にデスクワークを行う彼女よりもそちらの方がよっぽど似合っているような気がした。
彼女は早々と1杯目を飲み干すと2杯目を店員に注文した。店員がテーブルから離れてから、彼女は僕にまだ小説は読んでいるのかと聞いてきた。僕はまだ読んでいると答えた。
彼女は昔僕がどういう人間だったかを自分の印象を交えて話してくれた。我々がアルバイトをしていたお店は、ファーストフードチェーン店にしては少しサイズ感が小さかった。建物は3階建てで屋上が付いていたのだが、各フロアは12畳を縦長にしたような細長い店だった。その上、1階は厨房とレジのみ、3階は事務所だったので客席は2階だけである。席は20席ほどしかなく、いつも詰まりを起こすクズみたいなトイレが1つだ。僕はそこ(サイコロ3つ重ねてた後に縦に割り、建物と建物の間に残酷にも押し込められた楔のような)で働くことになる前は、もっと立派な店舗にいた。環状8号線を走っていると思わず目を引くような赤い屋根に巨大でぐるぐると回転するMのマークの看板(その上夜には黄色く不気味に発光する!)が左手に見える。店は2階建てだがしっかりと天井は高く客席は広々と造ってあり、建物は100人以上はいれるサイズだった。従業員は30人以上は所属し、レジは5台あった。もちろん駐車場も完備し、ドライブスルーは24時間稼働する盛況っぷりだった。古きよきアメリカを象徴するような建物と思い、まだ幼かった頃の僕はこの建物を目にする度に心が踊った。それに比べると次の店舗は若き少年たちを虜にさせるには程遠い魅力しか兼ね備えていない場所だった。
「3階と屋上を繋いでる階段があったじゃないですか。あそこでいつも本を読んでましたよね」
昔の記憶を辿る。確かに狭く汚く所々変色した苔が生えてる階段だった。
「そこで休憩してるときに、いつも本を持っていってタバコを吸ってることは良く覚えてます」
彼女はそれを嬉しそうに話しながら薄く汗をかいたワイングラスを自らの口に運んだ。
僕はその話を聞くまでそういう休憩中にしていた自分の行動を忘れていた。そして、そのことを思い出すといきなり恥ずかしくなり微熱を感知したときのように頭が熱くなる感覚を覚えた。
「どんな本を読んでたんですか」
小説だと答えた。どんな作家ですかとまた聞かれたからアルコールで少し鈍くなった頭のなかから1人ずつ好きな作家の名前を挙げていった。運良く3人目で彼女の欲しがった答えにたどり着いた。そうだそうだと一人合点したように頷きながらまたワイングラスを口に運んでいった。
「私読んでみたんです。その小説家の作品なんですけど。でも全然入り込めなくて楽しくなかったです。どういう所がよかったんですか」
僕は新しい作家や作品をどんどん見つけていくタイプではなく、特定の作家をグルグルと回し読み続けるタイプだった。各駅停車の次は急行、最後に特急というようなダイヤをまもる私鉄のように礼儀正しく3人の小説家の作品のサイクルを守って読むことが好きだった。
「言葉にするのは難しいな」
「簡単でいいので」
彼女はきっぱりと言った。それを言うのがさも当たり前で、
その答えを知る者がさも僕であることを確信しているように。僕は再び注がれた白ワインを眺めながら何が自分の判断基準なのだろうと考えた。
「文字の多さだね」
「文字の多さってなんですか」
少し考えたが、これが一番正解として正しいと思った。
文字の多さというのは、一番に考えるのは文字のサイズの小ささだ。もちろん小さければ小さいほど読みにくいし目には良くないということはわかっている。ただ、同じ文庫本サイズでも空っぽな一冊もあればチョコレートのたっぷり詰まった筒状のプレッツェルのようなみっしりした一冊もある。
次には頁数だ。僕は古本屋によく行くのだが、そこでいつも疑問に思うことがある。頁数も文字の詰まり方も大したことない本が恭しく店内に飾られることもあれば、一読の価値がある厚切りステーキのような素晴らしい本が店頭のみすぼらしいセールワゴンに野ざらしになっていることもある。文京区にある私大に4年間通いつめたが、通学ルートである神保町でそういう光景をよく見た。
もちろん僕の判断基準はそれだけではなかったが、何より重要なのはそこだった。それの他を説明してくれと言われたら一晩中話しても話足りず(大体は相手が音を上げる)次の朝に仕方なく入ったファミリーレストランのモーニングメニューが出てる時間を丸々使いきったあとにレギュラーメニューに切り替わったあともまだ話続けなければいけなくなるだろう。彼女は僕の話を聞きながら、ときより目を開けたり閉じたりした。僕の言葉の一つ一つをゆっくり牛のように咀嚼しているみたいだった。
「それじゃあ、文字が小さくつまってて分厚ければ分厚いほど上等で、文字が多くてページが10ページくらいだったら下劣ですか?」
文字が異常に大きく、10ページしか頁数がない小説を想像してみた。それはまるでさっき買ってきたばかりの洗濯機についている説明書にしか見えなかった。
「それが小説と言えるなら、きっとそうなんじゃないかな。ただ下劣という言葉は厳密には違う。単純に好きか嫌いかっていう話だよ」
もちろん頁数が少なく文字がどれだけ小さくても好きな作品はある(とてもとても少ない)し、最後までやっと読み進めた後にぐちゃぐちゃに破り捨ててベランダから放り投げてやろうかと思った作品(唯一一冊だけ)ある。ただ、ほとんどの場合において文字が小さく頁数が馬鹿みたいに多いほうが僕のお気に入りに選ばれることになった。
なるほどねという感じで片方の眉を上げた。彼女はそれまで飲んでいた白ワインから自家製だというサングリアに飲み物を変えた。
「私は小説とか嫌いなんです。特に現代の純文学とミステリーがダメ。なんだか入り込めなくて。それだったら歴史小説とか古くさいのが好きです。史学書なんか最高ですよ」
僕は彼女が楽しそうに話すのを適当に相づちをしながら聞いていた。そういえば彼女は有名な私大の史学科を出ていたことを思い出した。
その後は最近観た映画の話や仕事の愚痴や昔のファーストフード店での思出話で盛り上がった。店のなかは相変わらずの繁盛で、もといた僕らの丸テーブルは2人から3人、最終的には6人でぐるりとそれを囲うことになった。
ひっきりなしに出入りをする店内は、出ていく人間より入ってくる人間のほうがずっと多くて僕はそろそろ店を出ようかと思った。
「お店変えましょうか?」
彼女の申し出を快く受け入れた。渡りに舟とはまさにこのことだった。僕はそのとき腕時計を見たが、丸々4時間この店にいたことに驚いた。来るときにはまだ顔付きがしっかり浮かんでいた夕陽は、跡形もなく西の空の彼方に過ぎ去っていた。
「最後に強いお酒飲んでも飲みません?それでお会計しましょう」
少し考えたが、僕も飲むことにした。2人でショットグラスに入ったメキシコ酒を一気に飲み干し、外へ出た。

我々は渋谷へ向かって歩きだした。渋谷に行けばいくつか飲む場所があるだろうと思ったからだ。彼女は歩きながら246沿いにある高速道路の橋脚について色々話してくれた。都内に走る高速道路はどれも東京オリンピック前にたてられた建造物で、それらの耐久期間は終わりが近づいていた。その修繕や補強工事は何十年も前から地道に進んでいたが、終わりにはほど遠いものだった。
「もちろん悪い話ばかりではないんです。昔は通行止めを夜間に行ってる間に橋脚の劣化をしらべたり、それを調べた後に異常箇所をなおしてました。長い時間とお金と人員が必要な作業ですよ。今はだいたいカメラでそれが判断できます。すくなくとも調査する手間は大幅にカットできますね」
僕は彼女の話に感心していた。僕の家は車を持たない家だったのであらゆる車道と高速道路には縁がなかったが、実家の近くには高速道路が走っていた。昔は友達や兄弟と野球の練習や壁当てをしたものだった。僕は歩きながら彼女の耳でサラサラと揺れる陶器の破片を眺めていた。

幾枝にも広がる歩道橋を歩き、JR渋谷駅に一番近い階段を下った。9時を大幅に過ぎた駅前はまだ何の用とも分からぬ老若男女が行き交っていた。僕らは場所を決めずに井の頭線沿いの飲み屋街へ向かっていた。

「私そろそろ帰ります」
彼女は少し小さな声で突然そう言い出した。渋谷に近づくにつれて僕らは段々と話さなくなっていた。唐突なことだが、まあそういうこともあるだろうと思った。
「先輩は明日仕事ですか?そんなことないですよね。私は明日仕事があるので帰ります」
彼女の言い分は間違っていなかったし、実際に仕事の前の日に飲み過ぎて次の日の仕事の半分を頭痛と吐き気に悩まされることは辛いことは重々承知だった。いい気分はしなかったが、彼女があまりにきっぱりと言うものだから僕はそれ以上引き留めることも出来なかった。
「そうだね。今日は楽しかったよ。駅までの道のりはわかる?」
「わかります。今日はありがとうございました。それでは」
そのままとも来た道を彼女は歩いて帰っていった。その歩みは信号に阻まれることなくはぐれた魚が元いた魚群に吸い込まれるように見えなくなった。彼女が見えなくなっても、いなくなっても、ゆらゆらと規則的に揺れる青と白の陶器の破片が視界の隅から消えることは無かった。
僕は少しの間そこに立ち尽くしていたが、どこへ寄ること出来ず自分の家へ帰っていった。


僕は2本の煙草を根元まで灰にしたあと、またベッドに潜り込んだ。陶器の破片が揺れるイメージは僕を眠りに誘うどころか、しっかりとした意識に梯子をかけた後に僕をそこに無理矢理押し込もうとさえした。必死に眠気を捕まえようと努めたが、その戦いで勝利を納めることは出来なかった。枕元のデジタル時計は5:01を示していた。

ベランダにまた出るとすでに太陽がその顔を出しはじめていた。先ほどと同じように先端に火をつけると、煙を吸い込み副流煙を垂れ流し始めた。僕は煙越しに見える朝焼けを見ていたら、昔見に行ったことがある知り合いの絵描きの個展を思い出した。

当時に高円寺の小さな画廊で行われた個展は残念ながらあまり盛況はしていなかったが、彼と二三言ほど言葉を交わしながらこじんまりとしたギャラリーに飾られた絵画を心行く眺めることができてとてもいい時間を過ごせた。昔のことなのですべての絵を覚えていないが、僕は双子のような2つの階調絵をいまでも時々思い出す。
それらは濃緑と紫で構成されたものと黄色と橙色で構成されたものだった。ヴェルナー・パントンのソファーの色使いが洗練されキャンパスの上に踊り出たような素敵な絵だった。ただ不思議なことに、双子のようにそっくりな2枚の絵の前者は展示スペースに、後者はトイレに飾ってあった。2枚目の場所を彼に尋ねて驚いたが、実際に見てみるとこれが妙に調和していて感動したものだ。小さな洗面台と小さな鏡に小さな白熱灯、壁には貼ってあった数枚のフライヤーの上にその暖かいほうの双子が掛けられていた。その絵はどこかの穏やかな海に浮かぶ、暁とも夕焼けともつかない完璧なグラデーションだった。僕は何度もドアを開け閉めをしたり、様々な角度から見えるその双子にその文字通り「魅入られ」た。まるでトイレにそれを飾ってあるのではなく、その絵が飾られたあとに成り行きで小さな洗面台と小さな鏡と小さな白熱灯と設置されたかのようだった。
全ての作品を見終わったあと、絵描きである彼に2つの階調絵が素晴らしかったと正直に伝えた。ただ、なぜ1つをトイレに飾ったのかと聞いたら彼は恥ずかしそうに「飾るスペースが無かったんだ」と答えて笑った。僕はその答えで十分だった。
僕が店を出ようとしたとき、客は何人か増えていた。テーブルに座っていた彼に別れの挨拶をしたときに、もう一度2つの階調絵(特に2枚目と2枚目が飾られた空間)が素晴らしかったと称賛した。ありがとうと言いながら彼は刷ったばかりのDMを1枚手渡してくれた。また来るよと言い残し、僕は店を出た。

あのとき貰ったDMは、その後行われた2回の引っ越しと年に2回の行われる大掃除のためにどこかへ行ってしまった。DMは無くなってしまったが、あの時に眼にした双子のような階調絵は今でも脳裏に焼き付いている。今ベランダで煙越しに眺めている朝日はあの時トイレの壁にかけられた双子に似て綺麗だったが、やはりそれは違ったのだ。この時、あの時に眼にした心が震えるようなグラデーションにもう会えないのだと理解した。あの小さな画廊の小さなトイレに掛けられた双子はどこか別のトイレに飾られているだろうか、それとも今は人知れぬどこかのアトリエで眠っているのだろうか。僕は1人明るくなり始めるベランダに立ち、ただただ静かに双子たちの平穏を祈ることしか出来なかった。
作者にコメント

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