お題:昨日食べた夏 制限時間:1時間 読者:100 人 文字数:2325字

手繰る
女は食べられているのではない。食べているのだ。生暖かい感触をたどって体をねじ込めば、もう男は女の中にある。

「キョウコちゃん」

息絶え絶えな様子を演じて返事はしない。禿げ上がった頭の上から汗が落ちて鎖骨に当たり、快感の破片が肌を這う。重ねられた指の隙間は開いたまま、私のは枕をつかんでいる。嬌声を漏らす唇さえざらついた舌に絡めとられ
、私は下半身から盛り上がるしびれに腰を浮かした。今日はイケてよかった。

名前も知らない彼は財布の中からお札を3枚渡すと、じゃあねと手を振って部屋から出て行った。これで光熱費は払うことができる。

誰もいなくなった部屋の中は、かすかに体液の臭いがして、私はベッドから這い出た。クーラーをつける前に、部屋の窓を開ける。ひぐらしの声が大きくなり、冷たい風とともに、カレーの臭いがした。

四角く切り取られた足立区の坂の上にある空は、見慣れていた。崩れかけた入道雲を赤い太陽が突き刺して、オレンジの水彩絵の具を極力薄めた色をした空を極彩色でかき乱す。

タバコに火をつけて、太陽の横暴な色をかき消そうとしたけれど、煙が目にしみて、本当に、煙が目にしみて、涙が止まらなくなった。私は縮こまって、床に散らばった洗濯物の中に埋もれた。

殺されてもいいと思うようになったのは、派遣先をクビになった時だ。
私より仕事覚えの遅い若い正社員をとって、私はさようなら。あんな長い爪で、キーボードなんて打てるはずないのに。女は股を開けばそれでいいのかもしれない。私は貞淑でありすぎた。

29歳。男もいない。腹はたるんできた。二日酔いは治らない。思えば小学生の頃から成績は良かったし、大人に叱られた試しもない。それでも正社員になれなかった時に、気づくべきだったのだ。

一度、落ちてみよう。

ネットを介して適当な男を見つけ、自分の部屋に連れ込む。これだけで、1日3万円も稼げるのだ。私って、安くて、高いんだと、早く気づくべきだった。

誰かにストーキングされて殺されようと、個人情報をばら撒かれようと、それはそれで、求められている感じがして悪くないだろう。

今日で三十万だと思った。その日。昨日。彼はやってきたのだ。

「あの、抱かせてくれるって、本当ですか」

部屋に入っても落ち着かず、指のささくれをいじっていた彼は、シュウイチと名乗った。
年齢からみて、まだ女を知らなくてもおかしくはなさそうだった。

「ええ、どうぞ」

私はシュウイチさんの隣に座り、肩に寄りかかった。ひっ、と小さな悲鳴が上がって、シュウイチさんが私を見つめる。その瞳は恐怖に染まっていた。今までこんな目に私を写した人はいない。

「僕、女の人に慣れてなくて」

そうみたいですね、と私は冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったグラスに入れた。

「やっぱり、帰ります」

大柄なシュウイチさんが玄関へ向かうと、木造のアパートの床はギシギシと音を立てた。

「待って」

私はシュウイチさんの前に立つ。私より30センチ遠く離れた顔を覗き込むと、彼のつぶらな瞳からポトポトと涙が溢れてきた。

「できません、やっぱり」

どうして、と聞くほどに私はアホじゃなかった。

彼は、恋しているのだ。届かない人に。

「男の人が好きって気付いたのは、中学生の頃なんです」

ベッドに腰掛けたシュウイチさんは、皮の剥けた薄い唇をゆっくりと震わせた。おかしいでしょ、普通に考えて、こんなもさい男が、スポーツしかやったことのないような男が、クラスの図書委員の男の子に一目惚れするなんて、私は首を振った。

「彼の、指が、好きだったんです」
「指?」

そう、指です、とつぶやいたシュウイチさんの頬は、柔らかく色づいた。あの、文庫本を持つ指が、綺麗だったんです、教室の端の席に座って、薄い紙をゆっくりとめくるその指が、白くて、余計な力が入っていなくて、計算され尽くした美しさだったんです、大げさかもしれないですけど、神様は湊くんの、あ、湊くんって言うんですけど、彼の指に、この世界の美しいものから一粒づつ美しさを盗んで、彼に捧げたんじゃないかって思ってました。

「こっそり、彼の読んでいる本を古本屋で買いました。永井荷風も、トーマスマンも、僕には難しかったけれど、彼と同じ世界を楽しんでいるだけで、十分でした」

麦茶に揺れた氷が音を立てて崩れると、シュウイチさんはまた瞳に涙を浮かべて、窓の外を見つめた。ニキビ跡のある頬に西日が差して、短いまつげが震えてはそこに影を作った。

「まだ、好きなの?」

「何度触れてほしと思ったか。一度だけ、たった一度だけでよかった。彼の指と、僕のそれを重ねてみたかった
。皮膚に、体温に、すべて、感じたかった。それなのに」

忘れたかったんです、だからキョウコさんにすがってしまって、僕とっても失礼なことを、とシュウイチさんは私を見つめた。その目は、恋するものの、純粋さ、切なさ、暖かさ、そして、愚かさを湛えていた。

「ありがとう」

私はシュウイチさんの手を握った。ゴツゴツとしていて、濃く生えた指の毛がからまる。それでも、彼の指は暖かく、この夏そのものだった。シュウイチさんはその手を握り返すことも、離すこともせず、ただ窓の外にある夕焼けを眺めて、泣いていた。

目を開けると、世界は夜に溺れていた。満月の光が暗い部屋に差し込んで、私を含めたすべてを水色に落とし込む。冷たい畳の上に寝そべると、スマートホンの画面が白く光っている。メールが来ている。窓枠の中心には、折れそうな月が浮かんでいる。

私は私の指をどこにやるか、迷う。

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