お題:突然の雲 制限時間:15分 読者:267 人 文字数:1381字

人体は雲を含有しています
 

 吐息が雲に変わるという、そんな意味不明の薬を完成させたと聞いて、久しぶりに先生の研究室を訪ねてみたのです。
 まだ馬鹿な研究をやっているんですって、と、笑いながら茶化すつもりだったのですが、ドアを開いて一秒で、ああ来なけりゃあ良かったと、僕は本気で後悔しました。

 機械や薬品だらけの研究室は、すっぽりと白い雲に覆われていました。
 僕が開いたドアからさっと外気が流れ込み、雲が蠢きます。僕は山間の街へ旅行した時のことをとっさに思い出しました。ひやりとした空気、手を伸ばせば届きそうな場所をふわりと漂う濃密な霧。それは雲とほとんど大差なく見えました。だから言い換えても良いでしょう、先生の研究室は、真っ白な霧にすっぽりと覆われていました。


「せんせぇい。何処ですかあ」


 大学の中にいながら、遭難した気分です。口元に手を当てて叫ぶと、研究室の奥、雲の彼方から、「おおい、こっちだあ」と微かに声が聞こえてきました。
 雲が音を吸い込んでしまうのでしょう。随分と遠く聞こえます。


「先生、何をまた、こんな、馬鹿なことをしているんですか」


 研究室に足を踏み入れると、靴が、じゃりりと音を立てました。
 じゃり? おかしい。ここは研究室のはず。この感触はまるで地面、小石混じりの乾いた土を踏みしめた時と全く変わりません。
 いったい研究室をどうしてしまったのか、というか、何をやらかしているのか。眉を潜めつつも、濃い雲の中をふらふらと彷徨ううち、前方にようやく人影を見つけました。


「ああ、先生。やっと見つけた。これはいったい何の研究です」


 肩を掴み、ぎょっとして飛びのきました。
 振り返ったのは子ども、ちょうど腰の曲がった先生と同じくらいの背丈の――けれどもちろん、背筋はぴんと伸ばした、若々しい―― 子どもでした。見知らぬ子、いいえそれどころか、子どもは日本人ではありませんでした。白い霧の中でもはっきりと分かる、真っ黒な肌、際立つモノトーンの瞳。彼は簡単な腰巻を巻いただけで、あとは何も身に着けていませんでした。縮れた髪と睫毛が、霧にしっとりと濡れて光っています。彼はあっけにとられた僕をじいっと眺めると、そのままどこかへ走っていってしまいました。


「先生。先生。先生。いったい何処ですか」


 僕はパニックに陥り、やみくもに走り出しました。足音がじゃりじゃりと鳴り響きます。
 やがて、じゃりじゃりの彼方に、僕は人の声を聴きとりました。そこには、微かに先生の声も混じっているように思われました。一目散にそちらへ向かおうとするのですが、音のする方へ向かうほど霧が、雲が深くなるのです。音は吸い込まれ、何も見えなくなります。僕はほとんど泣きそうでした。


「神さま、風の神さま、どうにかしてください!」


 神様? そんなもの、今まで信じたこともないのに、僕はそう叫んでいました。
 一陣の風が鋭く吹き、雲を一瞬、吹き飛ばしました。雲の吸い込んでいた音が、わあんと蘇ります。
 僕がそこで見たのは、合唱でした。
 人々が輪になり、肩を組み、天に向かって歌をうたっています。
 彼らの口からは、声が、そのまま、白い雲になり、集まり、空へのぼってゆき、今にも、雷と雨とを、この大地に降り注がんとしていました。
 



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